室田豊四郎 明治45年 大阪生まれ 多摩美術(shù)大學(xué)入學(xué)後、豬熊弦一郎、脇田 和に師事。新制作協(xié)會會員 一抹の哀愁を秘めた詩情とほのぼのとしたユーモアの“馬の畫家”としてよく知られる。駿馬の雄姿を?qū)?実的に描く畫家なら珍しくない。室田さんは、どちらかというと擬人化され、デフォルメされた馬です。人馬一體観を思わせる深い気配が、畫面 空間いっぱいに立ち籠めています。 室田豊四郎畫集 『MUROTA』(昭和60年刊)より抜粋 発行者 北川耕二 印刷所 採光堂 撮影 長谷川洋治 200冊刊 跋文 豬熊弦一郎 「室田君の畫業(yè)を思ひて」於ホノルル 1985    「… 室田君が畫業(yè)半世紀(jì)展を開くことをきかされた。」 田近憲三 ?。o題) 植村鷹千代 「自選回顧展に際して」  「… 昭和16年に新制作展に出品することになった発端については、作者の述懐によると、當(dāng)時彼は応召によって中支で軍務(wù)についていたが、そこへ従軍畫家として來合わせた豬熊弦一郎、故佐藤敬両畫伯と識り合い、その時の豬熊弦一郎のすすめが契機(jī)になったということである?!? 後記「私の絵」 「… 帝國美術(shù)學(xué)校に入學(xué)して學(xué)校騒動で杉浦非水先生を擁立して多摩美を創(chuàng)立し4年生の3學(xué)期に徴兵猶予がなくなって大阪の8連隊(duì)へ入隊(duì)して満州へ行った。昭和12年の春である。北満國境を転々と楽しかった?!?「2年満州にいて陥落直後の中支の漢口へ移った。4年間現(xiàn)役を勤めて現(xiàn)地に高級軍屬として殘った。絵は満州時代から外出の時に良く描いた、漢口へ移ってからは報(bào)道部勤務(wù)だったのでよく絵を描くことが出來た。司令官たちに贈るためのものもあった。1年古兵に那須良輔さんがいた。除隊(duì)した後は日中文化交流の為に絵を描くことが仕事だったので良く描いた。當(dāng)時漢口には岡本太郎、古沢巖美さんらが兵隊(duì)で居た。英米撃滅絵畫展を開いて最終日後片付けをしていると空襲があって家が焼けてしまった?!?「焼ける前漢口の私の家は文化人のたまり場になって居て、良く集った。覚えているのは高見順、檀一雄、百田宗治、石黒敬七、萩原賢一さんだった?!?「馬の絵を描き始めたのは、1972年新制作に出品した5點(diǎn)の中4點(diǎn)が馬で各新聞で取り上げてくれた。特に田近憲三先生から激勵された、抽象を始めてから鳴かず飛ばずにくさっていた時だったので大変嬉しかった?!?