
翠緑の黙示録
序章:記憶の器
そのブローチは、老婆のしわ深い胸元で、靜かに呼吸をしていた。
コードネームは「B1504」。それが、この世に生まれ落ちた時(shí)に與えられた、無(wú)機(jī)質(zhì)な識(shí)別記號(hào)。しかし、長(zhǎng)きにわたる時(shí)間の流れの中で、それは數(shù)え切れぬほどの感情と記憶をその身に宿し、もはや単なる裝飾品の域を超えた存在となっていた。
中央に鎮(zhèn)座するのは、3.81カラットのネオンブルーグリーン?トルマリン。アフリカの乾いた大地が奇跡的に育んだ、內(nèi)側(cè)から発光するかのような神秘的な輝きを放つ寶石。その端正なエメラルドカットは、覗き込む者の魂の奧底まで見(jiàn)透かすかのような、靜謐な知性を湛えている。
トルマリンを抱くのは、最高級(jí)の18金で仕立てられた、一枚の葉のようであり、鳥(niǎo)の翼のようでもある有機(jī)的なフォルムの臺(tái)座。片側(cè)には、職人の手によって丹念に刻まれた絹のようなテクスチャーが施され、光を柔らかく亂反射させる。もう片側(cè)は、滑らかな鏡面仕上げとなっており、周?chē)欷尉吧瘸证林鳏伪砬椁蛲幛幛朴长烦訾埂¥饯欷悉蓼毪?、人生の光と影、喜びと悲しみの二面性を體現(xiàn)しているかのようだった。
そして、大粒のトルマリンに寄り添うように、あるいは夜空の主役を飾る月のように、総計(jì)0.15カラットの天然ダイヤモンドが、大小さまざまに、計(jì)算され盡くした無(wú)造作さで散りばめられている。それらは、持ち主が流した涙の煌めきか、あるいは、ふとした瞬間に訪れる幸福の閃光か。
裏面に回れば、華やかな表の顔とは対照的な、実直なつくりが見(jiàn)て取れる。しっかりと地金に固定されたピンが一本、鋭く伸びている。その付け根の近くには、ルーペでかろうじて読み取れるほどの小さな刻印があった。
老婆、高遠(yuǎn)靜子は、窓から差し込む午後の柔らかな光の中で、指先でそっとブローチに觸れた。ひんやりとした金の感觸と、トルマリンの持つ不思議な熱感が、指紋を通して彼女の記憶の扉を叩く。このブローチが見(jiàn)てきた、數(shù)多の人生。愛(ài)と裏切り、希望と絶望、そして、再生の物語(yǔ)を、靜子は誰(shuí)に語(yǔ)るでもなく、心の中で反芻するのだった。
すべては、あの燃えるような戀から始まった。
第一章:創(chuàng)造と情熱の輝き
1989年、日本が未曾有の好景気に沸いていた時(shí)代。東京の空は、欲望と野心の色でギラギラと輝いていた。新進(jìn)気鋭の建築家、黒川拓也は、その時(shí)代の寵児だった。彼が設(shè)計(jì)する建造物は、既存の概念を打ち破る大膽さと、人を包み込むような繊細(xì)さを併せ持ち、次々と権威ある賞を獲得していた。
彼のミューズであり、妻であったのが、玲奈だった。彼女は、華道の世界で獨(dú)自の感性を開(kāi)花させた蕓術(shù)家であり、その美貌と知性で、多くの文化人が集まるサロンの華でもあった。二人の出會(huì)いは運(yùn)命的で、その戀は激しく、周?chē)欷握l(shuí)もが羨むほどの理想的なカップルだった。
拓也は、玲奈の三十歳の誕生日を祝うために、世界でただ一つのジュエリーを贈(zèng)ることを決意した。彼は、舊知の寶飾デザイナー、安藤に連絡(luò)を取った。
「玲奈を、そして僕たちの愛(ài)を、形にしてほしい」
拓也の抽象的な、しかし熱のこもった依頼に、安藤は靜かに頷いた。數(shù)週間にわたる対話の中で、拓也は玲奈について語(yǔ)り続けた。彼女の情熱的な魂、時(shí)に見(jiàn)せる脆さ、森の奧深くにある泉のような瞳の色、そして、彼女の生ける花のしなやかな生命力。
安藤のアトリエで、デザイン畫(huà)が何枚も描かれては破られた。そしてある日、一枚のスケッチが拓也の心を捉えた。それは、二枚の葉が寄り添い、互いを支え合うようなデザインだった。
「片方の葉には、マットな質(zhì)感で、これまでの二人の穏やかな時(shí)間を。もう片方は鏡面にして、これからの輝かしい未來(lái)を映し出す。そして、その中心には、彼女の瞳の色を宿した、最高の石を」
石の選定は困難を極めた。安藤は世界中のネットワークを駆使し、ようやく一つのトルマリンに辿り著く。ブラジル?パライバ産のそれではない。しかし、アフリカの鉱山で奇跡的に採(cǎi)掘されたその石は、パライバ産に勝るとも劣らない、強(qiáng)烈なネオンを放っていた。深い緑に、鮮やかな青が一滴混じり合ったような、神秘の色。
「この石は、玲奈さんの魂そのものだ。靜かながら、內(nèi)に燃えるような情熱を秘めている」拓也は石を一目見(jiàn)て確信した。
數(shù)ヶ月後、ブローチは完成した。コードネーム「B1504」。安藤の工房で管理されるための番號(hào)に過(guò)ぎなかったが、それはこの世に生を受けた証でもあった。
玲奈の誕生日の夜、都內(nèi)を一望できるレストランで、拓也はビロードの小箱を彼女の前に差し出した。玲奈が蓋を開(kāi)けた瞬間、室內(nèi)の照明を集めたブローチは、まるで自ら光を放つ生命體のように、圧倒的な存在感で輝いた。
「きれい……」
玲奈は言葉を失った。トルマリンの深い翠は、彼女が愛(ài)する苔むした庭の靜けさと、都會(huì)の夜のネオンの煌めきを同時(shí)に內(nèi)包しているようだった。非対稱(chēng)のゴールドの葉は、拓也と自分、二人の個(gè)性が一つに溶け合っている様を表しているかのよう。そして、ダイヤモンドの小さな光の粒は、これまでの幸せな思い出の一つ一つが結(jié)晶になったように見(jiàn)えた。
「君のための、世界で一つの光だ」
拓也の言葉に、玲奈の瞳が潤(rùn)んだ。彼女はブローチを手に取り、その裏を見(jiàn)た。そこには、小さな文字で「T to R 1989」と刻まれていた。拓也から、玲奈へ。永遠(yuǎn)の愛(ài)の誓い。
その日から、ブローチは玲奈の胸元を飾るようになった。華やかなパーティーでは、多くの人々がその美しさを稱(chēng)賛した。玲奈は誇らしげに、夫からの贈(zèng)り物だと語(yǔ)った。ブローチは、玲奈の體溫を感じ、彼女の幸福な心の高鳴りを振動(dòng)として受け取っていた。シルクのドレスの上で、カシミアのセーターの上で、ブローチは玲奈の一部として、二人の愛(ài)の絶頂期を共に過(guò)ごした。
ブローチが見(jiàn)ていたのは、輝かしい時(shí)間だけではなかった。アトリエで、玲奈が作品作りに沒(méi)頭する靜かな時(shí)間。彼女の指先から生まれる、繊細(xì)で力強(qiáng)い花の造形。時(shí)には、創(chuàng)作の苦しみに眉をひそめ、深いため息をつく姿も。ブローチは、彼女の蕓術(shù)的な魂の燃焼を、すぐそばで感じていた。
拓也の成功はとどまることを知らず、彼の周りには常に人が群がっていた。玲奈は、そんな夫を誇りに思いながらも、少しずつ広がっていく距離に、漠然とした不安を感じ始めていた。かつては、二人だけの世界で語(yǔ)り合った未來(lái)。それが今では、多くの他人の思惑や欲望が渦巻く、巨大なプロジェクトの一部になってしまったかのようだった。
ある夜、パーティーから帰宅した玲奈は、拓也のシャツに、自分のものではない、微かな香水の匂いと、長(zhǎng)い髪の毛が一本付著しているのに気づいた。
その瞬間、玲奈の胸元で輝いていたブローチのトルマリンが、まるで嫉妬の炎を宿したかのように、ぎらりと冷たい光を放った。幸福の象徴であったはずのブローチが、玲奈の心に突き刺さる、冷たい棘の感觸を伴い始めた。ブローチの裏側(cè)のピンが、彼女の肌を直接刺すかのような、鋭い痛み。
愛(ài)の証は、疑念の証へと、その意味を変えようとしていた。
第二章:亀裂と氷の涙
拓也の変化は、緩やかでありながら、確実だった。帰宅時(shí)間は日に日に遅くなり、玲奈との會(huì)話は減り、その瞳が彼女を捉える時(shí)間は短くなった。彼の心を占めているのが、若いアシスタントの美咲だということを、玲奈が知るのに時(shí)間はかからなかった。
美咲は、拓也の才能を狂信的に崇拝していた。彼女の若さと、ひたむきな情熱は、成功のプレッシャーに疲れていた拓也にとって、抗いがたい魅力だった。二人の関係は、仕事上のパートナーシップを越え、密やかな情事へと発展していった。
玲奈は、何も言わなかった。問(wèn)い詰めれば、全てが崩壊してしまうことを恐れていた。彼女は、かつて拓也がくれたブローチルームで一人、鏡の前に立った。鏡に映る自分の顔は、不安と心労で憔悴し、美しさに影が差していた。胸元のブローチだけが、以前と変わらぬ、いや、以前にも増して鮮烈な輝きを放っている。その輝きが、今の自分を嘲笑っているようにさえ感じられた。
彼女はブローチを強(qiáng)く握りしめた。18金の滑らかな曲線が、手のひらに食い込む。ダイヤモンドの硬質(zhì)な角が、肌を傷つける。このブローチに込められた「永遠(yuǎn)の愛(ài)」という言葉が、虛しく、そして殘酷に響いた。トルマリンの深い翠を覗き込むと、吸い込まれそうになる。それはもはや、希望の色ではなかった。底なしの嫉妬と、孤獨(dú)の淵の色だった。
ある雨の夜、玲奈は拓也の書(shū)斎で、美咲に宛てて書(shū)かれた設(shè)計(jì)図の余白のラブレターを見(jiàn)つけてしまう。愛(ài)の言葉、未來(lái)の約束。それは、かつて玲奈自身が囁かれた言葉と同じだった。
玲奈の足元から、世界が崩れ落ちる音がした。彼女はよろめきながらリビングに戻り、ソファに座り込んだ。胸のブローチが、鉛のように重い。彼女は震える手で留め具を外し、ブローチをテーブルの上に置いた。
カツン、と乾いた音が響く。
それは、二人の愛(ài)が終わった音だった。
玲奈は、一晩中、そのブローチを見(jiàn)つめていた。夜が明ける頃、彼女の瞳からは涙が消え、氷のような決意が宿っていた。彼女は、拓也との思い出が詰まったこの家を出ることを決めた。そして、このブローチも、過(guò)去と共に手放すのだと。
數(shù)日後、玲奈は最低限の荷物だけを持ち、黙って家を出た。向かった先は、都心から少し離れた、古びた質(zhì)屋だった。店の主人は、玲奈が差し出したブローチを見(jiàn)て、息を呑んだ。一目で、それがただならぬ逸品であることが分かったからだ。
「お客様、これは…大変なものですよ。本當(dāng)に、よろしいのですか?」
玲奈は、無(wú)表情に頷いた?!袱à?。もう、私には必要のないものですから」
彼女は、店主が提示した金額を受け取ると、一度も振り返ることなく店を去った。
質(zhì)屋のショーケースの奧で、「B1504」は、新たな主を待つことになった。玲奈の體溫を失い、その輝きは少しだけ寂しげに見(jiàn)えた。ブローチは、玲奈の絶望の涙と、握りしめられた指の痛み、そして、愛(ài)が憎しみに変わる瞬間の、心の凍てつくような冷たさを、その記憶に深く刻み込んでいた。
それから數(shù)年間、ブローチは薄暗いショーケースの中で、様々な人間の欲望の視線に曬された。しかし、そのあまりの存在感と高価さゆえに、誰(shuí)も手を出す者はいなかった。ブローチは、ただ靜かに時(shí)が過(guò)ぎるのを待っていた。まるで、次に出會(huì)うべき運(yùn)命を知っているかのように。
第三章:再生のレクイエム
月日は流れ、時(shí)代は平成から令和へと移り変わっていた。若きIT企業(yè)の経営者である、斎藤健司は、成功の階段を駆け上がっていた。しかし、彼の心は満たされていなかった。彼の成功は、全てを捧げて自分を育ててくれた母?千代への恩返しのためだった。
千代は、かつて將來(lái)を囑望されたピアニストだった。しかし、指を侵す難病のために、その夢(mèng)を諦めざるを得なかった。以來(lái)、彼女は心を閉ざし、自宅で靜かに暮らしていた。健司は、母にもう一度、生きる喜びを取り戻してほしいと、切に願(yuàn)っていた。
ある日、健司は仕事の合間に、ふらりと立ち寄ったアンティークジュエリーショップで、ショーケースの中に眠るブローチに目を奪われた。それは、長(zhǎng)い間質(zhì)屋に置かれていた「B1504」が、時(shí)を経て巡り巡って、この店に辿り著いたものだった。
健司は、そのトルマリンの、生命力に満ち溢れた翠色に引き寄せられた。それは、絶望の淵にいる母の心に、再び光を燈してくれる色のように思えた。二枚の葉が寄り添うデザインは、自分が母を支え、母が自分を支えてくれている、二人の関係そのものを表しているようだった。
「これだ…」
健司は迷わなかった。彼にとって、それは母への最高の贈(zèng)り物になると確信できた。
千代の六十歳の誕生日。健司は、美しいラッピングが施された箱を母に手渡した。
「お母さん、誕生日おめでとう」
千代は、感情の読めない靜かな表情で箱を開(kāi)けた。そして、ブローチが現(xiàn)れた瞬間、彼女の瞳が、かすかに見(jiàn)開(kāi)かれた。
「なんて、美しい緑…」
それは、千代が何十年も忘れていた、心の奧底から湧き上がる純粋な感動(dòng)だった。
「葉のデザインは、『再生』を意味するんだって。お母さんに、新しい人生の一歩を踏み出してほしくて」
健司の言葉に、千代は何も答えなかった。ただ、震える指でブローチをそっと撫でた。その夜、千代はブローチを胸につけ、久しぶりにピアノの前に座った。鍵盤(pán)に觸れる指は、思うように動(dòng)かない。しかし、彼女は、一音一音を確かめるように、ショパンのノクターンを奏で始めた。
その音色は、かつての完璧な演奏とはほど遠(yuǎn)い、拙く、途切れ途切れのものだった。しかし、そこには、どんな名演にも勝る、魂の響きがあった。ブローチは、千代の胸元で、その音楽の優(yōu)しい振動(dòng)を感じていた。それは、玲奈が感じさせた情熱や嫉妬の激しい鼓動(dòng)とは違う、穏やかで、しかし確かな生命の息吹だった。
ブローチのトルマリンは、千代の心の再生を祝福するかのように、月明かりを浴びて、深く、そして優(yōu)しく輝いていた。それは、玲奈がこのブローチに與えた「絶望」の記憶を、千代の奏でる「希望」の旋律が、少しずつ癒していくかのようだった。
このブローチは、持ち主の心を映す鏡なのかもしれない。持ち主が希望を抱けば、それは生命の色に輝き、絶望に染まれば、嫉妬の炎を宿す。そして今、千代の靜かな勇気に呼応し、再生の光を放ち始めていた。
しかし、この穏やかな時(shí)間は、長(zhǎng)くは続かなかった。新たな人間関係が、このブローチの運(yùn)命に、再び複雑な影を落とそうとしていた。
健司には、沙織という婚約者がいた。彼女は資産家の娘で、美しく、社交的だったが、その心の奧には、常に他人からの承認(rèn)を求める渇望と、強(qiáng)い獨(dú)占欲を抱えていた。沙織は、健司が自分ではなく、母親にこれほど高価な贈(zèng)り物をしたことに、內(nèi)心、激しい嫉妬を覚えていた。
「お義母さま、素?cái)长圣芝愆`チですわね。健司さんからのプレゼントなんて、羨ましいです」
沙織は笑顔で千代に語(yǔ)りかけたが、その目は笑っていなかった。彼女の視線は、ブローチに釘付けになっていた。その輝きは、沙織の所有欲を強(qiáng)く刺激した。
ある週末、健司と沙織が主催する、大規(guī)模なチャリティーパーティーが開(kāi)かれることになった。千代は體調(diào)を理由に欠席を伝えた。パーティーの當(dāng)日、準(zhǔn)備に追われる沙織は、千代の部屋を訪れた。
「お義母さま、少しお借りしますわね」
千代が晝寢をしている隙に、沙織は寶石箱から、あのブローチをこっそりと取り出した。そして、自分の胸元に飾った。鏡に映る自分の姿に、沙織は満足げに微笑んだ。この輝きは、病気の老婆ではなく、若く美しい自分にこそふさわしい、と。
その夜のパーティーは、政財(cái)界の名士たちが集まる、きらびやかなものだった。沙織は、胸元のブローチを誇示するかのように、會(huì)場(chǎng)を闊歩した。多くの人々が、そのブローチの美しさを稱(chēng)賛し、沙織の自尊心は満たされていった。
そのパーティー會(huì)場(chǎng)に、偶然にも、一組の夫婦がいた。建築家の黒川拓也と、彼の妻となった美咲だった。玲奈と別れた後、拓也は美咲と再婚したが、彼の創(chuàng)作のインスピレーションは枯渇し、かつての輝きは失われつつあった。
美咲は、人々と談笑する沙織の胸元に輝くブローチを見(jiàn)て、凍りついた。
(まさか…あのブローチは…)
それは、かつて玲奈が、あれほど大切にしていたブローチに違いなかった。なぜ、こんなところにあるのか。玲奈さんは、どうしているのか。罪悪感が、津波のように美咲の心を襲った。彼女は、自分たちが玲奈から奪ったものの大きさを、改めて突きつけられた気がした。
一方、沙織は、パーティーの熱気に浮かされ、高揚(yáng)していた。しかし、ある瞬間、胸元に手をやった彼女は、血の気が引くのを感じた。
あるはずのブローチが、ない。
留め具が緩んでいたのか、誰(shuí)かにぶつかった衝撃で外れたのか。沙織はパニックに陥った。健司に知られたら、千代さんに知られたら、取り返しのつかないことになる。
彼女は、青ざめた顔で、必死に床に視線を走らせた。しかし、何百人もの人々が行き交う會(huì)場(chǎng)で、小さなブローチを見(jiàn)つけ出すことなど、不可能に近かった。
その頃、ブローチ「B1504」は、とあるテーブルの腳の影で、誰(shuí)にも気づかれず、靜かに転がっていた。シャンパンの泡が弾ける音、人々の甲高い笑い聲、オーケストラの演奏。様々な音と振動(dòng)を受けながら、ブローチは、人間の欲望と虛栄が渦巻く様を、冷ややかに見(jiàn)つめていた。トルマリンの翠は、今は誰(shuí)の感情も映さず、ただひたすらに、深い森の靜けさを湛えているかのようだった。
第四章:邂逅と贖罪
パーティーが終わり、人々が去っていく。喧騒が噓のように靜まり返った広間で、清掃スタッフたちが後片付けを始めていた。その中の一人に、高遠(yuǎn)靜子と名乗る、物靜かな初老の女性がいた。彼女こそ、かつての玲奈、その人であった。
拓也と別れた後、玲奈は過(guò)去を捨て、名前を変え、誰(shuí)にも知られず、靜かに生きてきた。華道の世界からも身を引き、日々の糧を得るために、こうした清掃の仕事をしていた。華やかな世界の裏側(cè)で、黙々と働くことの中に、彼女は心の平穏を見(jiàn)出していた。
靜子(玲奈)は、テーブルの下をモップで拭いている時(shí)、床の継ぎ目に何かがきらりと光るのを見(jiàn)つけた。彼女は屈み込み、それを指で拾い上げた。
息が、止まった。
手のひらにあるのは、紛れもなく、かつて自分が持っていた、あのブローチだった。
何十年という時(shí)を経ても、その輝きは少しも衰えていなかった。トルマリンの深い翠、18金の溫かい重み、ダイヤモンドの鋭い光。それら全てが、一瞬にして、封じ込めていた過(guò)去の記憶を呼び覚ました。拓也との燃えるような戀、幸福の絶頂、そして、裏切りと絶望の底。
指先が、微かに震える。裏側(cè)を返すと、そこには今も「T to R 1989」の刻印が、はっきりと殘っていた。
靜子(玲奈)は、ブローチを固く握りしめた。これは、運(yùn)命の再會(huì)なのだろうか。神様が、過(guò)去を乗り越えた自分への、ご褒美として返してくれたのだろうか。一瞬、このまま自分のものにしてしまおうかという考えが、心をよぎった。
しかし、彼女は靜かに首を振った。もう、このブローチが象徴するような、激しい感情の渦の中に、自分はいない。今の自分には、この輝きは眩しすぎる。
「落とし物です」
彼女は、パーティーの責(zé)任者である健司の元へ、ブローチを?qū)盲堡?。健司は、安堵の表情を浮かべ、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。本當(dāng)に、ありがとうございます。これは、母の大切なもので…」
その言葉を聞いた瞬間、靜子(玲奈)の心に、溫かい何かが流れ込んだ。このブローチが、今は誰(shuí)かの「大切なもの」として、穏やかな時(shí)間を過(guò)ごしている。それだけで、十分だった。自分の過(guò)去が、誰(shuí)かの現(xiàn)在の幸せに繋がっている。そう思えた時(shí)、長(zhǎng)年彼女の心を縛り付けていた鎖が、ふっと解けた気がした。
ブローチを取り戻した健司は、控室で泣きじゃくる沙織の元へ向かった。沙織は、自分の過(guò)ちを正直に打ち明け、健司に許しを請(qǐng)うた。
健司は、沙織を責(zé)めなかった。彼は、彼女の行動(dòng)の裏にある、自分への愛(ài)と、母親への嫉妬、そして、愛(ài)されたいという強(qiáng)い承認(rèn)欲求を理解した。完璧に見(jiàn)える彼女が抱える、脆さと孤獨(dú)。
「一緒に、母さんに謝りに行こう。そして、もう一度、僕たちの関係を、正直なところから始めよう」
翌日、二人は千代の元を訪れ、全てを打ち明けた。沙織は、千代の前にひざまずき、涙ながらに謝罪した。
千代は、黙って沙織の涙を拭うと、ブローチを手に取り、それを沙織の胸にそっと留めてやった。
「あなたに、これを差し上げます」
「え…?」
驚く沙織と健司に、千代は穏やかに微笑んだ。
「このブローチは、『再生』を意味するのでしょう? あなたたちが、本當(dāng)の意味で結(jié)ばれるための、お守りにしなさい。私の役目は、もう終わりましたから」
千代は、この一件で、自分がいかに息子に愛(ài)されているかを再確認(rèn)し、そして、息子が選んだ女性を、心から受け入れる覚悟を決めていた。ブローチは、彼女に再びピアノを弾く勇気を與えてくれた。それだけで、もう十分だった。
沙織の胸元で、ブローチは、これまでで最も優(yōu)しく、そして清らかな光を放っていた。それは、嫉妬や虛栄ではなく、赦しと、慈愛(ài)の輝きだった。ブローチは、人間の過(guò)ちと、それを乗り越える魂の気高さを、その記憶に新たに刻み込んだのだった。
そして、パーティー會(huì)場(chǎng)での出來(lái)事は、もう一人の人間の運(yùn)命も変えていた。
ブローチを目撃した美咲は、拓也に全てを話した。
「私たちは、玲奈さんから、あまりにも多くのものを奪いすぎたわ。もう、終わりにしましょう」
拓也は、何も言い返せなかった。彼もまた、長(zhǎng)年、罪悪感に苛まれ続けていたのだ。二人は、互いの過(guò)ちを認(rèn)め合い、別々の道を歩むことを決めた。それは、互いを解放するための、贖罪の第一歩だった。
終章:翠緑の遺産
さらに數(shù)十年が過(guò)ぎた。
ブローチ「B1504」は、健司と沙織の娘、未來(lái)(みく)へと受け継がれていた。未來(lái)は、祖母である千代の蕓術(shù)的な感性と、父の知性、母の華やかさを受け継ぎ、國(guó)際的に活躍するジュエリーデザイナー兼鑑定士となっていた。
彼女は、幼い頃から、このブローチにまつわる物語(yǔ)を聞いて育った。それは、単なる美しい寶石ではなく、家族の愛(ài)と、許しの歴史そのものだった。未來(lái)にとって、このブローチは、自らのルーツであり、創(chuàng)造の源泉でもあった。
ある秋の日、未來(lái)は、古い邸宅の遺品整理に伴う、寶飾品の鑑定依頼を受けた。依頼主は、遠(yuǎn)縁の親戚だという。邸宅の主は、高遠(yuǎn)靜子。數(shù)日前に、九十歳で、眠るように大往生を遂げたという。彼女は身寄りがなく、ひっそりと暮らしていた。
未來(lái)が、靜子の殘した質(zhì)素な部屋に入ると、そこには、驚くほど多くの、美しい押し花や、ドライフラワーのアレンジメントが飾られていた。まるで、時(shí)が止まった植物園のようだった。その一つ一つが、卓越した蕓術(shù)的センスで作られていることが、未來(lái)には分かった。
そして、機(jī)の上に、一冊(cè)の古いアルバムが置かれていた。未來(lái)が何気なくそれを開(kāi)くと、中の寫(xiě)真に息を呑んだ。そこに寫(xiě)っていたのは、若き日の、華やかで、自信に満ちた女性。そして、その胸元には、見(jiàn)紛うはずもない、あのブローチが輝いていた。
寫(xiě)真の裏には、「拓也さんと。1989年」と、美しい文字で記されていた。
未來(lái)は、全てを理解した。
高遠(yuǎn)靜子こそ、このブローチの最初の所有者、黒川玲奈だったのだ。彼女は、全てを失った後も、花を愛(ài)する心だけは失わず、一人靜かに、蕓術(shù)家としての魂を燃やし続けていたのだ。そして、あのパーティーでの再會(huì)。彼女は、自分が誰(shuí)であるかを名乗ることなく、ただ、ブローチが新たな持ち主の元で幸せであることだけを願(yuàn)い、靜かに立ち去った。
未來(lái)の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
彼女は、その日、自分がいつもお守りのように身につけている、あのブローチを胸に付けていた。未來(lái)は、そっとブローチに觸れた。
「あなたが見(jiàn)てきた全ての物語(yǔ)を、私が受け継ぎます。そして、これからも、たくさんの愛(ài)と希望の物語(yǔ)を、あなたと一緒に紡いでいきます」
ブローチのトルマリンが、未來(lái)の決意に応えるかのように、窓から差し込む光を浴びて、深く、そして力強(qiáng)い輝きを放った。それは、過(guò)去の全ての持ち主たちの、喜び、悲しみ、苦悩、そして愛(ài)をその翠色の中に溶かし込み、未來(lái)へと繋ぐ、生命の輝きそのものだった。
「B1504 美しいネオン系トルマリン3.81ct 天然上質(zhì)ダイヤモンド0.15ct 最高級(jí)18金無(wú)垢ブローチ/ペンダントトップ」
無(wú)機(jī)質(zhì)な名前で呼ばれた一つの寶石は、數(shù)奇な運(yùn)命の旅を経て、人間たちの愛(ài)憎の物語(yǔ)を黙して見(jiàn)つめ、時(shí)にその運(yùn)命を動(dòng)かし、そして今、新たな世代へと受け継がれていく。
その輝きは、これからも、多くの人生を照らし、靜かに、しかし雄弁に、語(yǔ)り継がれていくのだろう。愛(ài)は時(shí)に人を傷つけ、輝きは時(shí)に人の心を惑わす。しかし、それでも人は、愛(ài)を求め、輝きに希望を託すのだという、永遠(yuǎn)の黙示録として。
未來(lái)は、靜子の遺した花々に囲まれながら、ブローチを胸に、靜かに微笑んだ。その胸元で、翠緑の寶石は、まるで満足したかのように、穏やかな光を湛えていた。