日蓮聖人門下歴代大曼荼羅本尊集成 (解説共)
日蓮聖人の筆になる曼荼羅本尊は日蓮宗宗寶調(diào)査會(huì)で調(diào)査登録されているが、他方、立正安國會(huì)では日蓮宗各派及び個(gè)人所蔵のものに至るまでこれを採録し、これを勝妙版コロタイプに印行して「日蓮聖人御本尊集」と號(hào)した。その數(shù)一二三葉に及んでいる。また、近來宗寶調(diào)査會(huì)は新しく三幅の御本尊を発見登録したが、安國會(huì)出版の御本尊寫真によって聖人の本尊勧請(qǐng)形態(tài)、花押変化、授與書による弟子?檀那等をうかがい知ることができるようになった。これらはいうまでもなく聖人の教學(xué)?周囲をめぐる人物や門下僧俗の調(diào)査、研究に関する第一級(jí)の史料として重要であるばかりでなく、本尊の勧請(qǐng)形態(tài)の変化は聖人の信仰內(nèi)容の鑑として、宗學(xué)上重要な示唆を與えるものとして注目されている。
このように、御本尊寫真集は諸方に散在している門外不出の本尊をまのあたりにひらき拝し、聖人の息吹きをしたしく感じつつ、これらを手にとって巨細(xì)に鑽仰することができるという至便を研究?鑽仰者に與えている。
ところで、聖人直門の諸先師乃至孫弟子、また法華宣布に死身弘法の法勲をのこし、宗 旨?教學(xué)?法式?律儀に不滅の名を伝える諸先師留魂の御本尊が、聖人の御本尊集のよう に我々の目前にあつめ拝することができないであろうか、このことは多くの人々の心から 希求するところであったと思われる。
日蓮宗では大正の始めのころ日蓮宗宗寶調(diào)査會(huì)が組織され、稲田海素?影山虎雄?昇塚清研等諸師により聖人並びに先師の遺墨?遺品を調(diào)査?登録したが、これにともない、特に先師の本尊を蒐集すべく努力が重ねられた。かくして宗門上代の宗祖直門諸先聖の遺墨、 南北朝期、室町期にわたり京都を中心に爆発的な展開をとげ、これを中心に中國?九州?四國に拡張、更に関東に還り東北方面にまで伸展した各門流、諸派の著名な諸師の遺墨があつめられたのである。しかしながら當(dāng)時(shí)は寫真技術(shù)?器具?乾版等形態(tài)?重量、そして調(diào)査費(fèi)用の限度からその代表的なもの數(shù)點(diǎn)しか撮影することができず、品目の登録はできても本尊類はなかなか集積することができなかった。しかも、交通は主として汽車の便によるより方法がなかったから、鉄道から離れた地方や山の中に分け入ることは、特別の箇所でないかぎり殆んどできなかった。
戦後、昭和二十四、五年のころから宗寶調(diào)査が再開され細(xì)々ながらつづけられたが、間もなくカメラ、フィルム、車による交通事情の好転で登録調(diào)査、撮影は極めて好転し、順調(diào)かつ多量に蒐集することができるようになり、かくして日蓮宗諸派諸本山はじめ諸寺格護(hù)の霊寶、本尊類の実態(tài)がおおむね把握できるに至った。ここに有志が集まって先師本尊寫真製版のことが議せられ、この方面では斯界の第一人者である大塚巧藝社に依頼して、諸山を訪ねて精緻な寫真をとることになった。
かくして六老僧?中老僧等の諸師、日朗門下にして聖人より摩頂付屬をうけ、辛酸のすえ妙顕寺をひらいて京都法華宗の祖と仰た日像をはじめとする九老僧、備前法華の祖といわれる日像門下の大覚妙実をはじめとし、妙顕寺門家(いわゆる四條門流)よりでた諸師、また足利氏の一族としてその外護(hù)をうけ、日像より少しくねくれて京都に本國寺を創(chuàng)し六條門流の祖となった日靜とその門家、また、足利義教に法華正義を諫暁して言語に絶する責(zé)苦を受けながらもついに屈せず「鍋冠り日親」の名を京外に轟ろかせた日親、あるいは身延中興「朝意伝三師」といわれた日朝?日意?日伝の揮毫した大曼荼羅本尊の寫真が鋭意蒐集された。さらに妙満寺門流(顕本法華宗)派祖日什、八品派(法華宗本門流系諸山)祖日隆、本隆寺派(法華宗真門流)祖日真、本成寺派(法華宗陣門流)祖日陣等諸門流の開祖とその門家諸師、これら諸師をおおむね徳川時(shí)代初期を限りとして集成したのである。
まず、これを第一集としてこのたび刊行するに至ったが、その載録するもの二百二葉に及んでいる。しかも、日蓮聖人門下歴代上人が書き継がれたこれらの大曼荼羅本尊については斯學(xué)の権威者がそれぞれに健筆を振って解説を施して、讃仰に資せんとしている。
この御本尊集は多くの先學(xué)先匠が試みようとしつつ、ついになしえなかった畫期的な事業(yè)で、日蓮宗の教義?歴史、人物の研究?鑽仰には不可欠の第一史料となることは疑いない。本集につづいてこれに載録しきれなかった諸師及び徳川時(shí)代に活躍した門家諸師の本尊集の続刊を予定している。
この出版は宗祖七百遠(yuǎn)忌記念として本化御門下に連なる編者一同が、ささやかながら報(bào) 恩の一塵?一滴に擬せんとするうのである。
昭和六十一年三月令日 宮崎 英 修