堀辰雄
東京市麹町區(qū)平河町(東京都千代田區(qū))出身。広島藩士族の堀浜之助?東京出身の西村志気の子として生まれる。実父の浜之助には正室の こう がいたが子が無く、辰雄が堀家の嫡男として屆けられた。 2歳の時(shí)に志気が辰雄を連れて堀家を出、2年後に彫金師の上條松吉に嫁いだ。しかし、関東大震災(zāi)で母を失っている。
第一高等學(xué)校在學(xué)中に、芥川龍之介や室生犀星に師事。東京帝國大學(xué)文學(xué)部國文科入學(xué)後は、中野重治や窪川鶴次郎らと知り合い、社會(huì)主義思想や共産主義思想と結(jié)びついた文學(xué)であるプロレタリア文學(xué)に接し、また、小林秀雄、永井龍男、石丸重治、河上徹太郎、富永太郎らの蕓術(shù)派の同人誌『山繭』にも関係し、両者の影響を受けた。
1926(T15)中野重治らと同人誌「驢馬(ろば)」を創(chuàng)刊、詩?エッセー?翻訳を発表。この時(shí)期はモダニズムの影響を強(qiáng)くもった作品が多い。'27(S2)師事していた芥川龍之介の自殺に大きなショックを受ける。 また、中野らが左翼化していった中で蕓術(shù)派の道を歩む。'29橫光利一(4-1-39-16)や川端康成らと文蕓雑誌「文學(xué)」を創(chuàng)刊。'30処女作の短篇集『不器用な天使』を出版、同年ラディゲ風(fēng)の心理分析を施した作品『聖家族』で文壇に認(rèn)められた。
この頃、大喀血し肺結(jié)核を病み、軽井沢での療養(yǎng)が多くなった。そのため、軽井沢を舞臺(tái)にした作品も多く殘す。また病臥中にマルセル?プルースト、ジェイムズ?ジョイス、ライナー?マリア?リルケなどの西歐文學(xué)の影響による新しい創(chuàng)作方法を生み出した。
'33軽井沢にて矢野綾子と知り合い、その頃の軽井沢での體験を書いた『美しい村』を発表。'34矢野綾子と婚約。矢野綾子も肺を病んでいたため、'35八ヶ岳山麓にある富士見高原療養(yǎng)所に二人で入院したが、同年末に矢野綾子が死去。 この體験が『風(fēng)立ちぬ』の題材となり、純粋な愛と生命の美を描いた代表作となる。'36.12『風(fēng)立ちぬ』は雑誌「改造」にて発表している。'37加藤多恵(堀多恵子?同墓)と知り合い、翌年、室生犀星夫妻の媒酌で結(jié)婚した。
'39折口信夫から日本の古典文學(xué)を?qū)Wび、王朝文學(xué)に題材を得た『かげろふの日記』、'41既婚女性の家庭の中での自立を描いた『菜穂子』、同年発表の『曠野(こうの)』、『姨捨(おばすて)』がある。'43『大和路?信濃路』などエッセーにも優(yōu)れた作品が多い。 戦時(shí)下の不安な時(shí)代に、時(shí)流に安易に迎合しない作風(fēng)は多くの支持を得、雑誌「四季」('33創(chuàng)刊)の編集によって後進(jìn)に與えた影響は大きい。面倒見も良く、立原道造(1914-1939 24歳で急逝した詩人)、中村真一郎(1918-1997 小説家?詩人)、福永武彥(1918-1979 小説家?詩人?フランス文學(xué)者)ら多くの若手を育てた。
'44癥狀が重くなり、信濃追分(軽井沢)に定住し闘病生活を送る。戦後はほとんど作品を発表できなくなる。多恵夫人に看取られ逝去。享年48歳。辰雄が住んでいた家は「堀辰雄文學(xué)記念館」となっている。