102 x 57 センチ (全體) 36 x 53 センチ (本紙)
軸先:木
※全體サイズは表具の端から端のサイズです。軸先部分は含みません。
※商品?軸先の狀態(tài)につきまして下記【重要なおしらせ】項目をご一読お願いいたします。 紙本(印刷ではなく、描かれている作品です。)
★広渡湖秀という畫家は2人存在します。両者ともに長崎生まれ、唐絵目利職に就き、號や落款印も同一。先祖は明人浪仙一湖という人物で慶州広渡の出身としている點など共通點もあり、両者になんらかの深い関係があったと考えられます。
【広渡湖秀】1737-1784 江戸中期の畫家。長崎生。字は元厚、通稱を八平治と稱した。 名を儀、號は巌斐?巌斐道人。落款印に「崎陽山人」?「無聲之詩」など。西村八左衛(wèi)門の子であったが広渡湖亭の養(yǎng)子となり、広渡家第6代當主となる。長崎奉行所に唐絵目利兼御用絵師として仕えた。畫は石崎元章、熊代熊斐に學ぶ。天明4年(1784)歿、48才。法號慧応、光永寺に葬られる。
【広渡湖秀】1766-1820 江戸時代後期の畫家。通稱を傳平次?八左衛(wèi)門?多惣太と稱した。名を儀、號は巌斐?巌斐道人。長崎生まれ。妻は大橋氏。寛政3年(1791年)までは長崎で唐絵目利職に就いており、傳平次のちに八左衛(wèi)門を名乗る。その後、なんらかの理由で京都に上り江戸に出る。江戸では多惣太と名を改め、畫作を行い、大窪詩仏?柏木如亭?市河米庵?太田蜀山人ら當代一流の文人?名士と交流した。濃厚でアクの強い長崎漢畫と穏やかな円山四條派が混交した獨特の畫風を確立した。享年56。法名釋巌秀、墓所は 西応寺。
※付屬品につきまして 商品は畫像に寫っている物が全てになります。 木箱、タトウ箱などの有無につきましても畫像をご覧いただき御判斷お願いいたします。
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