★フランス國立セーブル陶磁器製作所工房作品詳細★ | |||
ブランド(原産國) | 【セーブル?SEVRES】フランス | ||
作品名(パターン) | L'Education de L'amour(戀愛教育) | ||
原作制作年度 | 1763年 Etienne-Maurice Falconet(エティエンヌ-モーリス ファルコネ) | ||
復刻年度 | 1997年 Pascale LOUVAT(パスカル ルーバ) | ||
作品サイズ | 高さ:30.5㎝,幅:25㎝,奧行き:23㎝ | ||
特記事項 | 畫像と実際の作品の色合い及び風合いは微妙に異なります。 | ||
ギフト包裝 | 対応できません。 | ||
參考上代(定価) | オープンプライス | ||
作品説明 | |||
クリエーター:Pascale LOUVAT(パスカル ルーバ) フランス國立セーブル陶磁器製作所工房で創(chuàng)作活動をするビスキュイ作家、陶蕓家。 ビスケット?白磁人形 【この作品は1882~1884年にセーブル工房で改良認可されたPN(ヌーベルペースト)によって制作されています】 この作品の白色磁器(ビスケット)は十八世紀から続く型取り?修復作業(yè)アトリエで制作されました。ここではセーブル陶磁器製作所の白色磁器や彫刻類(丸彫り、淺浮き彫り)、ビスケットという意図的に釉薬をかけない白色磁器の作品が1751年及び1752年から制作されています。 作品にはセーブル工房のロゴと制作年度が刻印され、作家のサインが彫り込まれています。 この作品はギリシャ神話のアドニス、彼自身が愛する術(shù)を教育する若い志願者を表しています。 ?一人目は肖像畫の術(shù)を?qū)Wんでいます。何故ならいつも愛は愛される事の非常に貴い特性を見出そうと務(wù)めているからです。 ?二人目は韻文、又は散文を書く技に専念しています。何故ならそれは上品な表現(xiàn)であるからそのように表現(xiàn)されるべきだからです。 ?三人目のいたずら娘は薔薇の花の下で愛の矢筒に入った矢を覆い隠しています。何故ならその策略はおそらく欠くことのできないもので無上の喜びてあると同様、痛手でもあるからです。 ?四人目はどう言ってよいか知らなくてはならないと同時に書かなくてはならない賛辭の 言葉を巧みにひねり出しています。何故なら何かにつけて自分の情熱を人に見せつけるのは良いことだからです。 花束、花冠、花飾りに寄せられた燃え盛る愛はいたるところにあるのですから。 セーブル工房の「ビスケット」という呼び方は、1751年以來の模様も釉薬もないセーブル工房の陶磁器彫刻のことを指す。この呼び名は白い大理石の無垢な冷ややかさを喚起させると同時に、マイセンの彩色された彫刻作品と區(qū)別する為に積極的に取り入れられました。 ☆Pate dure nouvelle(ou PN)☆ ヌーベルペースト(新硬質(zhì)磁器:PN):基本素材はカオリン、長石、水晶(これらの素材は1882~1884年にセーブル工房で開発された)で、PNはこれらの素材を1280℃~1300℃で焼く。 |
★Etienne-Maurice Falconet(エティエンヌ モーリス ファルコネ)★ | |
(1716年12月1日に生れ、1791年1月24日にパリにて歿)職人の家系に生れ、彫刻は伯父の大理石、石工師のNicolas Guillaumeに學んだ。その後1730年頃から木や粘土の彫刻を始め1734年にJean-Baptiste II Lemoyne(1704~1778)のアトリエに入る。同氏はAnne Suzanne Moulinと1739年に結(jié)婚し4人の子供を持った。その子供の一人が將來、図案家、彫刻家、畫家になるPierre-Etienneである。1745年Etienne-Maurice Falcontは蕓術(shù)大學に入學が許可される。1754年Milon de Crotone賞を授與される。その賞品は現(xiàn)在ルーブル美術(shù)館に保管されている。その翌年、同蕓術(shù)大學の助教授になり1761年に教授、1783年に副學長となる。 蕓術(shù)家の師弟の絆は強く又その助言者達にも特別な関係が生れやすい。Marie-Anne Ollot(1748~1821)はLemoyneのモデルであったがそのアトリエに通うPierre-Etienne Falcontと1777年に結(jié)婚した。只1780年には離婚する。この彫刻家の性格は結(jié)婚生活には向いておらず、次世紀に対し制作した數(shù)々の作品の傾向のように革命的な気性が災いしたようだ。 Falcontの作品に多くのFrancois Boucherの影響を見逃すわけにはいかない。この2人の蕓術(shù)家はCrecy城の庭園內(nèi)にある、酪農(nóng)場に設(shè)置するための彫刻像の下見の際1749年に初めて出會った。この酪農(nóng)場はポンパドール夫人の別邸として模様替えが行われていた。Boucherの図案てFalcontがビスキュイを制作するパターンは後のセーブル 工房での制作へと引き継がれていく。 1757年、王立セーブル工房の彫刻部門責任者に任命される。Falcontは週のうち一日をセーブル工房で仕事をした 。磁器作品の前段素焼きの原型作りである。多くの作品はFrancois Boucherの図案構(gòu)図や絵畫からの啓示を受けている。ポンパドール夫人所有のCrecy城の別邸に置かれた數(shù)々の作品もこのBoucherの絵畫の影響が多く見られる 。その後、次第にFalcontの制作テーマは二つの流れに絞られて來た。一つは「子供」をテーマにした彫像でありもう一つは「 Fontaine寓話」である。只ここでもFrancois Boucherの蕓術(shù)的相続人であることに変わりはなかった。小彫像の作品群は「動き」に重點をおいてセーブル工房で磁器素材で制作された。この作風は1764年から1766 年にかけて広く歐州全體へ波及した。 Falcontは彫像制作において、囲いを使わずソフトペーストのみで造型をする新しい技術(shù)を 1752~1753年より開発しビスキュイ、小彫像の制作がセーブル工房で始められる。制作期日の大幅な短縮が可能となり裕福で蕓術(shù)愛好の 一般市民からの注文も可能となり商業(yè)的にも成功を収める。Louis Reauの書評に《蕓術(shù)家が創(chuàng)る彫像 の原型はまるで舞臺の仮の彫刻像のように素早く出來上がり、1756~1766年の間は特にその作品群はMoreauの黃色い証書と共に市場に販売されLouis XV 世の世を謳歌した》 Pierre Ennesも彼の展覧會の記事の中で《セーブル工房のFalcont》の題でEtienne-Maurice Falcontのビスキュイ素材についてふれている。《VASE(花瓶)に古式鉄廻し裝飾したり、ギリシャ風花ぶな裝飾は多分初めての試みであろう。又、同186ページにこのような裝飾は作品を強固に長持ちさせる効用もある。この裝飾が次代のセーブル工房のLouis XVI世様式の下地になったことは疑う余地は無い》とも記されている。 並行してEtienne-Maurice Falcontはセーブル工房にて大理石塑像に似た彫像を創(chuàng)り1754~1765年の間定期的に作品の発表を展覧會で行った。(作品名:L’Amour menacant et La Baigneuse1757年作, Pygmalion et Galatee1761年作)又パリの教會の禮拝堂の裝飾も制作し、その後Marduel修道院のイコン制作などへの助言もした 。複數(shù)の大理石像についての図形教本などの制作もおこなっておりその內(nèi)容は現(xiàn)在においてもなんら古臭いものではない。 他には個人の好事家に1758年l’Amour Falconet et la Nymphe qui descend au bainの彫像を創(chuàng)った。この作品は後年二つの作品に分けて再度作られ展覧會へ出展された。一つは1761年、もう一つは1762年である。 1766年9月フランスを出國しロシア皇帝Catherine II 世のサンクトペテルブルグヘ移り1778年まで滯在した。その間多くの記念碑制作を手がけた。 フランスに戻った後1783年に病に陥り彫像についての論文整理に専念する。 又、古來の蕓術(shù)文獻を?qū)Wび蕓術(shù)大學の良き助言者としてあり続けた。Falcontには変わらぬ後援者と友がいる。彫像の良き理解者であるポンパドール夫人1752年にLa Musique、花と果樹の女神の彫像をCrecy城に制作し、1757年L’Amour像をパリの別邸に制作した。この建物は現(xiàn)在は大統(tǒng)領(lǐng)官邸となっている。Falcontの友人である Denis Diderotの伝評作家でもあるが《ここに一人の人間がいる。比較のしようのない萬物起源の質(zhì)のわかる者。彼は土を練る》Diderotは1759年、百科全書の彫刻に対する技術(shù)、哲學の深遠な説明を生みいつまでも変わらぬ友情は終わることが無かった。他にもDimitri Alexievitch Galitzine王子(ロシア皇帝Catherine II世の在フランス大使も1765~1767年に努める)Falcontのロシア滯在中の住居も提供した。1773年には Diderotと3人の面談もロシアで成った。 Etienne-Maurice Falcontは數(shù)多くの素焼き塑像も制作した。注文はフランス王の建物のための作品もあるが、特筆すべき新しい裝飾は1753年パリのSaint-Roch教會、Marduel修道院の作品である。 |
★Sevres(cit de la cramique)★ | |
フランスが誇るセーブル窯はポンパドール婦人の助力もあって、王立窯として発展を遂げました。1759年、王立セーブル製陶所となり、今もフランスの文化と美を伝える優(yōu)れた陶磁器を生み出し続ける國立セーブル製陶所の歴史はここに始まります。セーブルの功績は、國家的使命ともいえるフランス獨自の意匠を確立し、完成度の高い蕓術(shù)作品を作り続けてきたことにあります。18世紀、セーブルは東洋蕓術(shù)の様式をうけつぎながらも、當代一流の化學者、畫家、彫刻家、金工家の參加によって獨自の世界を創(chuàng)造しました?!竿跽撙吻唷埂弗愆`ズ?ポンパドール」と呼ばれるセーブルの色、華美で鮮麗な裝飾、獨特の風合を持つソフトペーストなど、他の追隨を許さないセーブル蕓術(shù)が、宮廷文化の中に華開いたのです。盛名を馳せたセーブルも、國窯という背景から生産は非常に限定され、世の人々の目に觸れることは少なく、「希少な陶磁器」と呼ばれました。今日に至っても、生産量は年間約6000ピースと限定され、そのほとんどがフランス國家のために作られます。この少量生産は、「最高の作品を作り出す」ための必然であり、その稀少性ゆえに、誇り高きセーブルの名聲は一段と高まっています。 |
セーブル フィギュリン 白磁 人形置物