商品詳細(xì)
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【真作】富岡鐡斎(富岡鉄斎) ◆號(hào):鐡崖◆漁礁問答◆和田三造箱◆二重箱◆肉筆◆紙本◆掛軸◆w882
◆富岡鐡斎(富岡鉄斎)(とみおか てっさい)
Tessai Tomioka
1836(天保7)~ 1924(大正13)
【美術(shù)年鑑評(píng)価額 8000萬円】
日本畫, 儒學(xué)者, 漢詩家, 南畫家
1836 ( 天保7 )~ 1924 ( 大正13 )
本名:猷輔、後に百錬
字:無僊
號(hào):裕軒、鐡斎、鐡史、鐡荘、鐡崖、鐡生、鐡道人など多數(shù)
【出身地?師系】
京都府/太田垣連月
【所屬?任】
帝國美術(shù)院會(huì)員、帝室技蕓員
【略歴詳細(xì)】
京都新町三條の法衣店「十一屋伝兵衛(wèi)」の子として生まれたが幼少のころからの持病である難聴の為、商人には不向きとして聖護(hù)院の太田垣連月の下に預(yù)けられ國學(xué)や儒學(xué)、漢詩など學(xué)問を?qū)Wぶ、またこの間に絵畫にも興味を持ち學(xué)問の合間で絵畫技術(shù)の向上に精進(jìn)していた。
幕末は1862年、27歳のころに聖護(hù)院蓮月舊居跡に私塾を開き學(xué)問を教え始めたが生活苦により畫業(yè)との両立をはじめ(この頃から百錬と改名、雅號(hào)にも百錬を使用)當(dāng)時(shí)の中堅(jiān)文人畫家として名が知られるようになり山中靜逸や江馬天江などとも親交を深め共に國事にも奔走している。
明治維新後は69年に西園寺公望が創(chuàng)立した立命館の講師に招かれ指導(dǎo)、教育業(yè)をする傍ら師、蓮月の詩に自分の畫を書き加えた共同作品を制作して生活、76年には大和石神神社(奈良県)の宮司、翌77年には和泉鳳神社の宮司(大阪府)なども務(wù)めている。
また、82年47歳にして本格的に畫業(yè)に従事して大和絵、寫生畫、文人畫、寫生畫、裝飾、洋畫、水墨、琳派、南畫とすべてのジャンルの研究、模寫を網(wǎng)羅して50歳の頃に多彩な色彩を用いて大膽で抽象性の高い筆致を基本とした當(dāng)時(shí)として他に類をみない鉄斎畫を確立、1917年に帝國美術(shù)院會(huì)員、19年に帝室技蕓員に任命されている。
◆和田三造 (わだ さんぞう)
Sanzo Wada
【美術(shù)年鑑評(píng)価額 80萬円】
日本畫, 洋畫家, 工蕓家, 版畫家
1883 ( 明治16 )~ 1967 ( 昭和42 )
【出身地?師系】
兵庫県/黒田清輝
【所屬?任】
帝國美術(shù)會(huì)員、東京美術(shù)學(xué)校教授
【主な受賞】
文展2等賞など
【詳細(xì)略歴】
明治33(1900)年に畫家を志して上京して黒田清輝の白馬會(huì)洋畫研究所に入所、次いで東京蕓術(shù)學(xué)校にも學(xué)んで37年に同校を卒業(yè)、翌年には白馬會(huì)展で白馬賞を受賞、07、08年には文展にて第2等賞を連続受賞となり大正6年には審査員を務(wù)めた。
この間、09年~15年までヨーロッパに留學(xué)して図案工蕓に興味を引かれ以降研究するようになり洋畫のみならず版畫、日本畫、工蕓にいたるまで手掛けるようになる。
昭和期に入ると昭和2(1927)年に帝國美術(shù)會(huì)員に就任、母校東京美術(shù)學(xué)校図案科の教授となり後進(jìn)の育成に盡力、図案、色彩研究に多くの功績を殘した。
この作品は、肉筆?紙本により『漁礁問答』が描かれております。
箱は、和田三造先生が記されております。
箱にシミがございます。
二重箱付です。
本紙には、小ジミ?小ジワがございますが、概ね狀態(tài)は良好です。
表裝には、小ジミ?小ジワがございますが、概ね狀態(tài)は良好です。
真作保証品ですので、ご入札の程よろしくお願(yuàn)い致します。
サイズ
約【縦208cm×幅46cm?(本紙)133cm×33cm】
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