今日の大谷専修學(xué)院の基礎(chǔ)は信國(guó)先生によって築かれたといっても過(guò)言ではないと思います。今からおよそ50年前の親鸞聖人の七百回御遠(yuǎn)忌を前に學(xué)院に招かれた先生は、「呼応の教育」、「如來(lái)の呼びかけに応じる人となる」ということを掲げて、仏教の教えを生活の根本に置く學(xué)びをすすめられていたのだと思います。
「人間は死を抱いて生まれ、死をかかえて成長(zhǎng)する」(『信國(guó)淳選集』第六巻「第一部浄土」柏樹(shù)社)しかし、ともすると私たちはこの事実を見(jiàn)ようとしない。信國(guó)淳(のぶくにあつし)先生はこの言葉について、「仏教では人間のことを「生死(しょうじ)するもの」と言っているが(中略)私どもの生きることそのこと自體が、(中略)一つの解決を要する課題として、私どもに與えられている」と表現(xiàn)している(同書(shū)より)。
人間は、生を求める心で死を恐れ、若さを誇(ほこ)る心で老いを嫌い、罪なき清らかな自分を求める心で穢(けが)れた自分を憎(にく)んで生きている。その人間の不安、苦悩はどこで超えられるのか。
信國(guó)先生は「真実の救い」は、「私どもが邪魔ものにする自分の存在の不安と、不安をなくそうとして迷うその迷いとをこそ當(dāng)の縁として、私どもに私どもの外から來(lái)る」「音連(おとづ)れ」、「私自身に呼びかける言葉」である、と教えてくださっている(同書(shū)より)。