この鉄塔婆は、鎌倉時(shí)代終わりころの1312(正和(しょうわ)元)年、宇都宮8代城主貞綱(さだつな)が、亡き母の13回忌(かいき)の供養(yǎng)(くよう)のために鋳造(ちゅうぞう)し奉納(ほうのう)したものである。 表面は梵字(ぼんじ)や阿彌陀三尊(あみださんぞん)、文字が浮き彫(ぼ)りになっている。 鉄製の塔婆(とうば)は全國的に類例がなく、大変貴重なものである。 江戸時(shí)代終わりころの1849(嘉永(かえい)2)年、暴風(fēng)雨によって3つに折れたので、1911(明治44)年に修復(fù)した。その後、腐食(ふしょく)が進(jìn)んだので、1996(平成8)年に保存処理を施(ほどこ)した。出典:宇都宮の歴史と文化財(cái)

清巌寺(せいがんじ)は、栃木県宇都宮市大通り五丁目にある浄土宗寺院。山號(hào)は芳宮山。本尊は阿彌陀如來(あみだにょらい)。開基(創(chuàng)立者)は宇都宮頼綱、開山は旭蓮社儀翁。宇都宮貞綱が母の菩提を弔うために鋳造して奉納したと謂われる鉄塔婆が現(xiàn)存することで知られる。鉄塔婆は國の重要文化財(cái)に指定されている。
清巌寺の歴史は、鎌倉時(shí)代初期に宇都宮氏によって建立された寺院を、戦國時(shí)代に宇都宮氏の家臣であった清原姓芳賀氏が移築して寺號(hào)を清巌寺としたことにより始まるとされる。
宇都宮家當(dāng)主?第5代宇都宮頼綱1205年元久2年)に幕府より謀反の嫌疑を受け、これを機(jī)に熊谷で隠居生活を送っていた當(dāng)代の英傑?熊谷直実(熊谷蓮生入道)の勧めにより法然に帰依、1208年承元2年)に出家して実信房蓮生と號(hào)し念仏道に入った。頼綱は京に住んで証空にも師事し、幕府から罪が許された後の1215年建保3年)に市內(nèi)?宿郷町に當(dāng)寺の起源となった念仏堂を建立した。頼綱は京の浄土宗光明寺にも念仏堂を建立している(現(xiàn)在の京都市右京區(qū)常盤の西方寺といわれる)。
その後、戦國時(shí)代に入り、宇都宮宗家の譜代の重臣であり姻戚関係もあった芳賀高継が、主家への反骨が災(zāi)いして自害した兄?芳賀高照の菩提を弔うため、宿郷町にあった念仏堂を1573年天正元年)に現(xiàn)在地に移築し、「芳賀氏」の「芳」を採って山號(hào)を「芳宮山」、「芳賀高照」の「高照」を採って院號(hào)を「高照院」、「清原氏」の「清」を採って「清巌寺」とした。
1601年慶長3年)、初代の関東郡代である伊奈忠次から寄進(jìn)を受け、朱印地25石を塙田に有した。出典:ウィキペディア

ある先生からこの拓本は、足場を作って取られた大がかりな拓本なので道端の石仏等をとった拓本とは訳が違い、現(xiàn)存するのはこれだけではないかということでした。

広瀬栄一氏は、石岡市高浜にある酒造會(huì)社の元社長で考古學(xué)文學(xué)に造詣が深く文人との交流も數(shù)多くあります。
臺(tái)東區(qū)根岸にある子規(guī)庵の戦後の再建をした寒川鼠骨との交流や再建を経済的に援助した人です。

拓本は広瀬氏が収集したものしかないと思われ大変貴重な史料です。
拓本が取れるという広瀬氏の人脈に驚嘆します。
拓本もまた文化財(cái)だと思います。

多くの方にご覧になって戴き貴重な資料がご研究のお役に立てればそして故郷に帰ることができれば大変嬉しいです。

寫真にあるスケールは全長17㎝です。
サイズは38.6×308.8㎝です。
狀態(tài)は経年によるシミヤケと破れがあります。
発送は追跡可能なクリックポストを予定しています。