本名、津島修治。青森県津軽の大地主の家に生まれる。父親は貴族院議員も務(wù)め、邸宅には30人の使用人がいた。小學(xué)校を首席で卒業(yè)。14歳の時に父親が病沒し、長兄が家督を継ぐ(太宰は六男)。16歳の頃から小説やエッセイをクラスメートと作った同人雑誌に書き始めた。高校では芥川、泉鏡花に強(qiáng)く傾倒し、中高を通して書き記した習(xí)作は200篇にも及ぶという。18歳の時に敬愛する芥川が自殺。猛烈に衝撃を受けた太宰は學(xué)業(yè)を放棄、義太夫を習(xí)い花柳界に出入りし、青森の料亭で15歳の蕓妓(げいぎ)?小山初代と知り合い深い仲になる。1929年(20歳)、秋頃から急激に左翼思想に傾斜し、12月10日深夜に最初の自殺未遂。資産家の子という自己の出身階級に悩み、下宿で睡眠薬(カルモチン)による自殺を図り昏睡狀態(tài)に陥ったのだ。
翌年、東大仏文科に入學(xué)。かねてから『山椒魚』等で井伏鱒二を尊敬していた太宰は、上京後すぐ井伏のもとを訪れ弟子入り。治安維持法によって非合法化されていた左翼活動にも、具體的に係わっていく。秋頃、愛人関係にあった小山初代に、地元有力者からの身請け話が持ち上がり、動揺した太宰は彼女を上京させる。名家の息子が蕓妓を呼び寄せたことが郷里で騒ぎになり「全ての肉親を仰天させ、母に地獄の苦しみをなめさせた」(東京八景)という。2人が同棲し始めると、生家から長兄が上京し、“(初代が蕓妓でも)結(jié)婚は認(rèn)めるが本家からは除籍する”と言い渡される。これを受けて兄と初代は落籍の為にいったん帰郷、11月19日に分家を?qū)贸觥⒊丹欷俊?1月24日、長兄が太宰の名で小山家と結(jié)納を交す。
一方の太宰は、この結(jié)納の翌25日に銀座のカフェの女給?田部あつみ(19歳、理知的で明るい美貌の人妻。夫は無名の畫家)と出會い、そのまま淺草見物など3日間を共に過ごした後、11月28日夜、神奈川県小動崎(こゆるがさき)の畳巖の上でカルモチン心中を図る。翌朝地元の漁師に発見され、田部は間もなく絶命、太宰は現(xiàn)場近くの恵風(fēng)園療養(yǎng)所に収容される。驚いたのは長兄。すぐさま津島家の番頭を鎌倉へ送った。番頭は田部の夫に示談金を渡したり、太宰の下宿にあった左翼運動に関する大量の秘密書類を、警察の調(diào)査前に焼卻したりと走り回った(実際、翌日に警察が踏み込んでいる)。亡くなった田部を見た番頭曰く“大変な美人で、私は美人とはこういう女性のことをいうのかと思いました”。事件後、太宰は自殺幇助罪に問われたが、起訴猶予となる。
翌12月、一命を取り留めた太宰は青森碇ヶ関溫泉で小山初代と仮祝言をあげた。
22歳、長兄は初代を蕓妓の境遇から解放して上京させ、太宰との新所帯を応援。太宰は屈折した罪悪感から左翼運動に沒頭し、反帝國主義學(xué)生同盟に加わった。大學(xué)にはほとんど行かず、転々と居を移しながらアジトを提供し、ビラ撒き、運動へのカンパなどを行なった。太宰が用意したアジトで機(jī)関紙の印刷や中央委員會が開かれた。ビルの上からビラを撒くことを太宰は「星を振らせる」といい、後年「チラチラチラチラ、いいもんだ」と回想している。23歳、青森の実家に警察が訪れ、太宰の行動について問いただしたことから左翼活動のことがバレ、激怒した長兄(県議をしていた)から「青森警察署に出頭し左翼運動からの離脫を誓約しない限り、(仕送りを停止し)一切の縁を絶つ」という手紙が屆く。こうして足掛け3年間の太宰の左翼運動は終わった…組織の友人たちを裏切ったという深い後ろめたさと共に。
以後、井伏の指導(dǎo)で文學(xué)に精進(jìn)し、檀一雄や中原中也らと同人雑誌を創(chuàng)刊、『思い出』を始めとして、堰を切ったように執(zhí)筆活動を開始する。
1935年(26歳)、授業(yè)料未納により大學(xué)から除籍され、都新聞社の入社試験にも落ち、3月16日夜、鎌倉八幡宮の山中にて縊死を企てたが失敗(3回目の自殺未遂)。その直後、盲腸炎から腹膜炎を併発、入院先で鎮(zhèn)痛のため使用した麻酔剤(パビナール)をきっかけに薬物中毒になる。同年、芥川賞が創(chuàng)設(shè)され、太宰は『逆行』により第一回芥川賞の5人の候補者に入った。結(jié)果は、石川達(dá)三が受賞し太宰は次席。選考委員の一人、川端康成は太宰について「目下の生活に厭(いや)な雲(yún)ありて、才能の素直に発せざる恨みあった」と評した。これを読んで逆上した太宰は『川端康成へ』との一文を記し、文中で「私は憤怒に燃えた。幾夜も寢苦しい思いをした。小鳥を飼い(川端の小説“禽獣”への皮肉)、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った。大悪黨だと思った」と怒りをぶちまけた。この頃から佐藤春夫に師事する。
※川端の返事は「根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい。(中略)“生活に厭な雲(yún)云々”も不遜の暴言であるならば私は潔く取消す」と大人の対応。
翌年(27歳)、太宰は“遺書のつもりで書いた”という作品集『晩年』を刊行、芥川賞の選考前に川端へ本を郵送する。次の手紙をつけて--『何卒(芥川賞を)私に與へて下さい。一點の駈け引きございませぬ。深き敬意と秘めに秘めたる血族感とが、右の懇願の言葉を発っせしむる様でございます。(中略)私に希望を與へて下さい。私に名譽を與へて下さい。(中略)「晩年」一冊のみは恥かしからぬものと存じます。早く、早く、私を見殺しにしないで下さい。きっとよい仕事できます』。
ド真ん中直球ストレートの、泣きつくような懇願文だ。上京以後、心中事件で相手を死なせてしまったり、蕓伎と結(jié)婚したり、非合法活動に係わったり、大學(xué)も卒業(yè)出來ず就職に失敗するなど、故郷の生家に數(shù)々の迷惑をかけたことから、芥川賞の受賞で名譽挽回を果たそうとしたのだ。それに薬物中毒でかさんだ薬屋の借金を払う為にも賞金が必要だった。だが、選考の過程で「すでに新人に非ず」と最終候補から外され深く打ちのめされる。
同年秋、太宰の薬物依存があまりに深刻な為、心配した井伏ら周囲の者は太宰に“結(jié)核を療養(yǎng)しよう”と半ば騙すような形で、武蔵野病院の精神病病棟に入院させた。一カ月後、完治して退院したものの、太宰は「自分は人間とは思われていないのだ、自分は人間を失格してしまっているのだ」と深く傷つく(この體験は8年後『人間失格』に結(jié)実する)。太宰が退院すると、妻初代は入院中に他の男と間違いを犯したことを告白した。
1937年(28歳)、浮気にショックを受けた太宰は、初代と谷川岳山麓の水上溫泉でカルモチン自殺を図ったが今回も未遂となり離婚する(4回目の未遂)。一年ほど杉並のアパートで下宿生活し、10ヶ月近く筆を絶つ。井伏は太宰のすさんだ生活を変える為に、自分が滯在していた富士のよく見える山梨県御坂峠に招待する。こうした気分転換が功を奏し、徐々に太宰の精神は安定していく。翌年、井伏が紹介した高校教師?石原美知子と見合い、婚約。1939年(30歳)、井伏家で結(jié)婚式をあげ、東京?三鷹に転居、以後死ぬまでここに住む。 太宰の作品は明るく健康的な作風(fēng)となり名作『女生徒』『富嶽百景』を生み、川端から「“女生徒”のやうな作品に出會へることは、時評家の偶然の幸運」と激賞される。31歳、『駈込み訴え』『走れメロス』を執(zhí)筆。1941年(32歳)、太平洋戦爭開戦。翌年発表した『花火』(後に「日の出前」と改題)が、當(dāng)局の検閲によって“時局に添わない”と全文削除を命ぜられる。1944年(35歳)、故郷への郷愁を綴った『津軽』を脫稿。
1945年(36歳)、空襲下で執(zhí)筆し始めたパロデ?!氦げ菁垺护虔E開先の甲府で完成。敗戦を津軽の生家で迎える。翌年、坂口安吾や織田作之助と交流を深めた。1947年(38歳)、2月に神奈川まで太田靜子(太宰に文章の指導(dǎo)を受けていた愛人)を訪ね5日間滯在。太田をモデルに沒落貴族の虛無を描いた『斜陽』を書き始め6月に脫稿する。11月には太田との間に娘が誕生し、「太田治子(はるこ、“治の子”)、この子は私の可愛い子で父をいつでも誇ってすこやかに育つことを念じている」との認(rèn)知証を書く。同年、三鷹駅前のうどん屋臺で山崎富栄(當(dāng)時28歳、戦爭未亡人)と出會う?!亥籁%瑗螭纹蕖弧氦丹蟆护虬k表?!盒标枴护洗蠓错懁趣胜晏驻厦暏葨压猡税蓼欷?。
1948年、過労と亂酒で結(jié)核が悪化し、1月上旬喀血。富栄の懇親的な看病のもと、栄養(yǎng)剤を注射しつつ5月にかけて、人生の破綻を描いた『人間失格』を執(zhí)筆。また『如是我聞』で志賀直哉ら文壇批判を展開する。太宰は文壇の頂點にいた老大家?志賀を「成功者がつくる世界の象徴」と敵視し、「も少し弱くなれ。文學(xué)者ならば弱くなれ。(中略)君は代議士にでもなればよかつた。その厚顔、自己肯定」「芥川の苦悩がまるで解つていない。日蔭者の苦悶。弱さ。聖書。生活の恐怖。敗者の祈り。」「本を読まないということは、そのひとが孤獨でないという証拠である」と噛み付いたのだ。
6月13日深夜、太宰は機(jī)に連載中の『グッド?バイ』の草稿、妻に宛てた遺書、子どもたちへのオモチャを殘し、山崎富栄と身體を帯で結(jié)んで自宅近くの玉川上水に入水する?,F(xiàn)場には男女の下駄が揃えて置かれていた。6日後の19日早朝(奇しくも太宰の誕生日)に遺體が発見される。帯はすぐに切られ、太宰は人気作家として立派な棺に移され運ばれたが、富栄はムシロを被せられたまま半日間放置され、父親が変わり果てた娘の側(cè)で一人茫然と立ち盡くしていたという。
死後、『桜桃』『家庭の幸?!弧喝碎g失格』『グッド?バイ』などが次々と刊行される。娘の津島佑子、太田治子は共に小説家となった。