令和6年から「源氏物語(yǔ)」の作者?紫式部をモデルにしたNHK大河ドラマ「光る君へ」が放送されております。

京都の公卿?大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)自筆「源氏物語(yǔ)」近衛(wèi)基熙?舊所蔵

自筆「源氏物語(yǔ)」の「柏木(かしわぎ)」の巻は、禁裏(京都御所)において書かれたものです。

「柏木の巻」の主人公「柏木」は、國(guó)寶「源氏物語(yǔ)絵巻」の中に柏木を見舞う夕霧として描かれている

自筆「源氏物語(yǔ)」の筆者である「大炊御門宗氏(おおいのみかどむねうじ)」は、室町時(shí)代の第103代天皇である後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の曽祖父です。
したがって、出品した自筆「源氏物語(yǔ)」は、天皇の曽祖父の貴重な自筆です。 大炊御門宗氏の長(zhǎng)男?信宗の娘が大炊御門信子(のぶこ)であり、信子は後花園天皇の寵愛を受け準(zhǔn)后として御所に居住し、皇子を生み後に第103代後土御門天皇として即位し、信子は生母?皇太后となる。現(xiàn)在の今上天皇と系譜がつながっている。

 関白?近衛(wèi)基熙(このえ もとひろ)は、後水尾院(第108代後水尾天皇)の皇女?常子內(nèi)親王と結(jié)婚。二人の皇女?熙子(ひろこ)は、甲府藩主?徳川綱豊と結(jié)婚。綱豊は、のち第六代將軍?徳川家宣となり、熙子(ひろこ)は將軍家宣の正室となった。近衛(wèi)基熙は、千利休の孫?千宗旦との茶會(huì)の交流(下記に掲示)で知られると同時(shí)に、第111代?後西院天皇や後水尾天皇を主賓に迎え茶會(huì)を開催。茶會(huì)の際、基熙が所蔵する藤原定家?自筆の「定家色紙」を持參した記録がある。基熙は、他にも朝廷?幕府の間で茶會(huì)を何度も開催した記録が殘っている。(資料の記録は下記に掲示)

 出品した「源氏物語(yǔ)」は、南北朝時(shí)代から室町時(shí)代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」の自筆です。
 自筆「源氏物語(yǔ)」の書の特徴から高松宮系統(tǒng)と稱されるものです。「源氏物語(yǔ)」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複數(shù)の年號(hào)の記載があることから、少なくとも応永五年から8年間にわたり書かれていることがわかる。このため後醍醐天皇の宸翰(しんかん?天皇自筆)にかなり近い年代に書かれていることがわかる。また、各巻ごとの書かれた年については不明。従って、応永五年とは、書き始めの年である。また、落款から、後年、近衛(wèi)基熙(1648~1722)の所蔵となり、時(shí)代が下って、松平不昧公の手にわたり、正室?方子の所蔵となったものである。近衛(wèi)家で永く保存されておりましたので、保存狀態(tài)は極めて良好です。


 大炊御門家は、平安時(shí)代末期摂政関白藤原師実の子経実?治暦4年(1068)~天承元年(1131)を祖として創(chuàng)立された。大炊御門北に邸宅があったため「大炊御門(おおいみかど)」を稱する。初代、経実の子経宗は平治の亂で平清盛方の勝利に貢獻(xiàn)。また、二條天皇の外戚として勢(shì)威をふるい、左大臣に昇った。出品した「源氏物語(yǔ)」の筆者?大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)は、大炊御門家13代の當(dāng)主で南北朝時(shí)代から室町時(shí)代前期の公卿。応永5年(1398年)に従三位となり公卿に列する。備前権守、參議、権中納言、権大納言などを歴任し、応永27年(1420年)に內(nèi)大臣に昇任した。

 舊?所蔵者の近衛(wèi)基煕は、「源氏物語(yǔ)」に造詣が深く、「源氏物語(yǔ)」の注釈書『一簣抄』(いっきしょう)を著(あらわ)しております。炊御門宗氏?自筆「源氏物語(yǔ)」は、近衛(wèi)基熙が研究のために収集し、のちに出雲(yún)松平家に伝わり、松平治郷の正室?方子が鑑賞していたものです。近衛(wèi)基熙が所蔵する自筆?「源氏物語(yǔ)」の中で、最も美しく繊細(xì)な筆致で記された平安時(shí)代の文字に最も近いとされております。數(shù)ある自筆「源氏物語(yǔ)」の中で、第一級(jí)品と稱される貴重な自筆です。


 出品した「源氏物語(yǔ)」は柏木(かしわぎ)の內(nèi)容の要旨
『源氏物語(yǔ)』五十四帖の巻名のひとつ。柏木の巻には、源氏の君の正室で朱雀天皇の皇女?女三の宮が「薫の君」を出産したことが主要なテーマ。薫の君の出産後、盛大な誕生を祝う産養(yǎng)(うぶやしない)の宮中行事が続く。しかし、柏木と女三の宮は暗然たる思いをかみしめている。女三の宮の生んだ「薫の君」が源氏の君の子ではなく、柏木との間に生まれた子供であるという秘密をかかえこんでいた。柏木な複雑な思いをかみしめながら體調(diào)をそこねている。女三の宮も生まれた子供のことを思い出家をしてします。病の床にあった柏木の元を友人の夕霧が見舞いに訪ね女三の宮との逢瀬の秘密をそれとなく話す。重體に陥った柏木は、正室?女二の宮(朱雀天皇の皇女)の悲運(yùn)を思い將來(lái)の後事を託す。柏木のなきあと、初夏に入ってまもなく夕霧は、柏木の正室?女二の宮を訪ねる。女二の宮付女房たちが、夕霧の凜々しさを見て、女二の宮との結(jié)婚を期待する。


自筆下部の印は出雲(yún)?松江藩主?松平治郷の正室「方子(よりこ)」と娘?幾千姫(玉映)の落款(印譜)

自筆上部の「在天願(yuàn)作比翼鳥」(天に在りて願(yuàn)わくは比翼の鳥とならん)「天に在ってのお願(yuàn)いは比翼の鳥となることである」の漢詩(shī)の落款
漢詩(shī)は「白氏文集」の中の有名一節(jié)で、白楽天の連理の詩(shī)で有名です。漢詩(shī)の由來(lái)は、「ことならば、ならしの枝にならさなむ葉守の神のゆるしありきと」との柏木の中の一文にあります。「葉守の神」とは柏木に宿る神。「葉守の神のゆるし」とは柏木のゆるしの意味上の句の「ならしの枝」(なれ親しむ枝)つまり連理の枝となってほしいという和歌です?!溉~守の神」といえば落葉を防ぐ神である。葉守の神は落葉の宮と稱された女二の宮を守る夕霧ということになる。柏木は自分の死後の女二の宮の行く末を友人の夕霧に託した。今度は夕霧が葉守を守る神になるという意味です?!冈谔祛?yuàn)作比翼鳥」は、白楽天の連理の詩(shī)で有名であり、夕霧と女二の宮が天にあって連理の比翼の鳥として末長(zhǎng)くはばたいてほしいという意味が落款に込められている。押捺の詳細(xì)な理由は下記説明欄に記載
(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。)

大炊御門宗氏?自筆「源氏物語(yǔ)」近衛(wèi)基熙?舊蔵の來(lái)歴については下記「説明欄」に記載

《「源氏物語(yǔ)」柏木(かしわぎ)の巻》
「柏木」の巻は英文で「The Oak Tree」と表記されます。
《自筆上部の「在天願(yuàn)作比翼鳥」(天に在りて願(yuàn)わくは比翼の鳥とならん)「天に在ってのお願(yuàn)いは比翼の鳥となることである」の漢詩(shī)文の落款が押捺されている。この漢詩(shī)は「白氏文集」の中の有名一節(jié)です?!?

「額縁入自筆原本」

(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。)

「自筆原本」

自筆右下二つの印は、出雲(yún)?松江藩主?松平治郷の正室?方子?と娘の幾千姫(玉映)の落款。

自筆上部の「在天願(yuàn)作比翼鳥」(天に在りて願(yuàn)わくは比翼の鳥とならん)「天に在ってのお願(yuàn)いは比翼の鳥となることである」の漢詩(shī)文の落款が押捺されている。この漢詩(shī)は「白氏文集」の中の有名一節(jié)です。

《原本中の凹凸はストロボの影響によるものです?!?

自筆下部の印は出雲(yún)?松江藩主?松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)


自筆が「古切」とされたのは江戸時(shí)代。古切に至る詳細(xì)な経緯は下記「希少価値欄」に記載

(1)?自筆の「原文の読み下し文」は次の通りです。


《「源氏物語(yǔ)」柏木(かしわぎ)の巻》
《「在天願(yuàn)作比翼鳥」(天に在りて願(yuàn)わくは比翼の鳥とならん)「天に在ってのお願(yuàn)いは比翼の鳥となることである」の漢詩(shī)文の落款が押捺されている。この漢詩(shī)は「白氏文集」に由來(lái)するものです?!?BR>
《思ひ給へをよはん》????に志たか(從)ひて、ふかき心の程をも、
御覽せられにしかな」となん。神事なとのしけき頃ほひ、わたくしの
心さしに任せて、つくつくと篭り侍らむも、例ならぬ事なりけれは。
たちなから、はた、中々に、飽かす思ひ給へらるへうてなん、
日頃をすくし侍りにけるに。おとゝなとの、心を亂り給ふさま、
見聞き侍るにつけても、親子の道の闇をは、さる物にて、かゝる御中らひの、
ふかくおもひとゝめ給ひけん、ほとを、推し量り聞えさするに、
いと、盡きせすなん」とて、しはしはおし拭ひ、はなうちかみ給ふ。
あさやかに、け高き物から、なつかしう、????《なまめいたり。》


(文責(zé)?出品者)
「原文の読み下し文」は、読みやすいように「通行訳」としております。



(2)?自筆の「原文の現(xiàn)代語(yǔ)訳文」は次の通りです。


《「源氏物語(yǔ)」柏木(かしわぎ)の巻》
《夕霧、一條の女二の宮(朱雀天皇の皇女?柏木の正室)と柏木のことを語(yǔ)り合う》

《(夕霧)「衛(wèi)門督(柏木)は、今はの際に私に女宮(女二の宮?朱雀天皇の皇女?柏木の正室)について
お言い遺(のこ)しになったことがございました。
それは、けっしておろそかに存じあげてはおりません。
誰(shuí)しも気長(zhǎng)にいつまでも長(zhǎng)らえてはいられない世の中です。
この私のほうがしばらくでもあとに生きとどまっているのでございますから、その間だけでも、
考え及びますままに》??????深い志のほどをもごらんに入れたいと存じております。
神事などの引き続いております時(shí)分でして、そうしたときに私情にかまけてつくねんと
引きこもっておりますのも尋常ならぬことでしたので、それにまた立ちながら
かりそめのご挨拶(あいさつ)で引き退(さが)りますのもかえって心殘りにちがいないと存ぜられまして。
それで、今までご無(wú)沙汰の日數(shù)を経てしまったのでございました。
大臣(柏木の父)などがご悲嘆していらっしゃるご様子を拝見いたしますにつけても、
闇路(やみじ)にくれまどう親子の情もそれはそれとして、このようなご夫婦の
お間柄では、どんなに督の君(柏木)が深くお心を殘していらっしゃっただろうかと
お察し申しあげますと、まったく盡きぬ思いがいたしまして」
とおっしゃって、しばしば涙をおしぬぐい、鼻をかんでおいでになる。
大將(夕霧)はきちんとして気高いお方ながら、物腰もやさしく????《優(yōu)雅でいらっしゃる?!?

注記?女三の宮は、出家しているが髪は剃らず、長(zhǎng)い元のままである。「尼姿」は、僧の薄墨の衣裝をまとっているという意味。

備考1?源氏の君の正室?女三の宮(朱雀帝の皇女)の生んだ「薫の君」は源氏の君の子ではなく、柏木との間に生まれた子供。その秘密が源氏の君の知るところとなり苦悩する柏木と女三の宮を記す。

備考2?女二の宮は、朱雀帝と一條御息所の皇女で、柏木の正室。柏木は生前、友人の夕霧に女二の宮(落葉の宮)の行く末を遺言として託す。

現(xiàn)代語(yǔ)訳の出典?「源氏物語(yǔ)」小學(xué)館刊?阿部秋生?東大名譽(yù)教授(1999年沒(méi))

備考?出品した自筆は、大炊御門宗氏?自筆で近衛(wèi)基熙の舊?所蔵になるものです。




(2)?自筆の「英訳文」は次の通りです。


《The Oak Tree(柏木)》
It is not a world in which any of us can feel secure,
but until the day when it becomes clear which of us is to go first,
I mean to exert myself in your behalf and hers in every way I can think of.
Too much has been going on at court to let me follow my own
inclinations and simply withdraw from things,
and it would not have been very satisfying to
look in on you and be on my way again.
And so the days have gone by.
I have heard that Tono Chujo is quite insane with grief.
My own grief has only been less than his, and it has been deepened by the
thought of the regret with which my friend must have left your daughter behind."


英語(yǔ)訳文(英文)の出典:『The Tale of Genji』
Edward George Seidensticker(エドワード?ジョージ?サイデンステッカー)コロンビア大學(xué)教授(2007年沒(méi))




(2)?自筆の「中國(guó)語(yǔ)訳」は次の通りです。


《柏木》
人生于世,壽夭無(wú)常,小生之命亦早,
只要一息尚存,但凡思所及,定當(dāng)竭力效。
二月之內(nèi),朝廷神事繁忙,若私人之悲而居不出,
又非向例所。即使在此期抽暇來(lái),也只能立即去,
反有不能盡情之憾。因此久不曾前來(lái)拜望。
曾前太政大臣遭此明之痛,悲不堪。
父子情深,迷悟,此亦人之常情。然夫妻之情,
更深切,推想公主悲之狀,令人心不堪也!”
屢屢手拭淚揩鼻。


中國(guó)訳文の出典:『源氏物語(yǔ)(Yunsh wy)』
豊子愷(ほうしがい)中國(guó)最初の「源氏物語(yǔ)」翻訳者(文化大革命で沒(méi))


「柏木の巻」原本の末尾(原本番號(hào)41-B)の印は、仙臺(tái)藩第五代藩主?伊達(dá)吉村の正室?伊達(dá)貞子の押印

左の寫真2枚が「源氏物語(yǔ)」柏木の巻の末尾(原本番號(hào)41-B)右面と左面の押印。
寫真一番左下の角印が仙臺(tái)藩の家紋?。ㄖ瘠巳福?BR> 家紋印の上の2つの印は仙臺(tái)藩主第五代藩主?伊達(dá)吉村の正室(冬姫)。冬姫は內(nèi)大臣?通誠(chéng)の養(yǎng)女。
冬姫は通稱。正式な名は伊達(dá)貞子。左端の寫真は「柏木の巻」末尾の拡大寫真。
左上の篆書體は、「在天願(yuàn)作比翼鳥」(天に在りて願(yuàn)わくは比翼の鳥とならん)の押印。
篆書體の下の二つの印は、出雲(yún)?松江藩主?松平治郷の正室「方子(よりこ)と娘?玉映の落款
寫真左から2枚目上の2つの印は仙臺(tái)藩醫(yī)?木村壽禎の落款
右端の寫真上は仙臺(tái)藩主(伊達(dá)家)正室一覧表の表紙。表紙の下は一覧の拡大寫真(仙臺(tái)市立博物館?刊行)
(奧書は、令和2年11月29日に蔵の中の桐箱から発見されたものです。)


自筆の疎明資料等は、下記の通りです。



(Ⅰ)?上の寫真右端は、高松宮「源氏物語(yǔ)」のうち「桐壺」の巻冒頭?(出典資料 別冊(cè)「太陽(yáng)」「源氏物語(yǔ)絵巻五十四帖」(平凡社?刊)78頁(yè)。筆者は近衛(wèi)関白政家公。中央の寫真は、応永五年(1398)の年號(hào)。年號(hào)の左の印は、出雲(yún)?松江藩主?松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)。左の寫真は、桐壺の巻の奧付。左大臣から関白に昇進(jìn)した近衛(wèi)基熙(もとひろ)公の花押。上下2段の花押のうち、上の印は。出雲(yún)?松江藩主?松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)、下の印は仙臺(tái)藩醫(yī)?木村壽禎の落款(印譜)


「自筆の畫像斷層(MRI)寫真」


(出品した自筆の「斷層畫像寫真」(柏木の巻)MRI 36―32B
自筆下二つの印のうち下は、出雲(yún)?松江藩主?松平治郷の正室「方子(よりこ)」、上は娘の幾千姫(玉映)の落款


「源氏物語(yǔ)」「柏木の巻」主人公?柏木の資料

下記寫真は、國(guó)寶「源氏物語(yǔ)絵巻」の中に描かれる柏木。


病床の柏木を見舞う夕霧。左が柏木、右が夕霧。




「天皇の曽祖父?大炊御門宗氏の系図」「額縁裏面表記ラベル」
「近衛(wèi)基熙の肖像」「後西院天皇主賓の茶會(huì)の記録」


1番上の寫真は、第103代後土御門天皇と曽祖父?大炊御門宗氏の系図(公家事典303頁(yè))
2番目の寫真は「額縁裏面」に表記されるラベル。2番目の寫真は近衛(wèi)基熙の肖像(陽(yáng)明文庫(kù)?所蔵)
3番目の寫真は、第107代後陽(yáng)成天皇の曾孫?近衛(wèi)基熙の天皇家?近衛(wèi)家略系図
4番目の寫真は、天皇家?近衛(wèi)家略系図の出典(淡交テキスト「茶會(huì)記」に親しむ?7)平成29年7月淡交社?刊行



大炊御門宗氏?自筆「源氏物語(yǔ)」近衛(wèi)基熙?舊所蔵(斷簡(jiǎn))を出品
商品説明(來(lái)歴) 大炊御門宗氏?自筆「源氏物語(yǔ)」は、第107代後陽(yáng)成天皇の曾孫?近衛(wèi)基熙の舊所蔵である。近衛(wèi)基熙は、「源氏物語(yǔ)」に造詣が深く、「源氏物語(yǔ)」の注釈書『一簣抄』(いっきしょう)を書いてある。出品した大炊御門宗氏?自筆「源氏物語(yǔ)」は、近衛(wèi)基熙が研究のために収集し、のちに近衛(wèi)家から出雲(yún)松江藩主?松平治郷(不昧公)の正室?方子(よりこ)に伝わり、方子の生家である仙臺(tái)藩から同藩の藩醫(yī)?木村壽禎に伝來(lái)していたものである。

漢詩(shī)文 「在天願(yuàn)作比翼鳥」(天に在りて願(yuàn)わくは比翼の鳥とならん)「天に在ってのお願(yuàn)いは比翼の鳥となることである」の漢詩(shī)文の落款が押捺されている。この漢詩(shī)は「白氏文集」に由來(lái)するものです。
源氏物語(yǔ)「柏木」原本の17-Aの原本に記されております。紫式部が「柏木」を書くに際し、「白氏文集」の漢詩(shī)を熟読したうえで「源氏物語(yǔ)」の「柏木の巻」を書いていることがわかります。この原詩(shī)の言葉の引用は、「柏木の巻」に用いられていることで広くしられている。紫式部がこの原詩(shī)に親しんでいたと推定されている。

漢詩(shī)の落款の意味 原本上部の漢詩(shī)の落款は、「讃」と稱されるもので、古來(lái)、掛軸の書畫に第三者がお褒めの言葉を書き込むもので元々は自筆でした。貴族から始まり藩主、あるいは高名な茶人や僧侶が書かれて、それが茶會(huì)の「掛軸」に裝丁されて披露されておりました。  特に出雲(yún)?松江藩などの茶道の盛んな大名家の所蔵する自筆などに「讃」が付され、後に自筆に代わり、石刻による「漢詩(shī)」の篆書が「讃」として用いられました。  「茶事」は、「ヨーロッパの晩餐會(huì)(ばんさんかい)」とも言われます。晩餐會(huì)では、「ワインを楽しむために行われる」ところも似ています。とりわけ、茶室に入って行うことは、床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)することです。茶道では「掛け軸は最高のごちそう」といわれております。とりわけ、漢詩(shī)の落款は、ただ、古典の漢詩(shī)を入れればいいという単純なものではなく、たとえば、「源氏物語(yǔ)」の場(chǎng)合、原本の中に込められている紫式部が考えた知識(shí)を読み解くことにあります。 「讃」の中に有名な白楽天の漢詩(shī)を単純に落款として入れたのではなく、紫式部が原本の中に白楽天の漢詩(shī)を読み込んでいることを知ったうえで漢詩(shī)を選んでおります。  落款の「讃」の元になるその原文の個(gè)所には、
「在天願(yuàn)作比翼鳥」(天に在りて願(yuàn)わくは比翼の鳥とならん)「天に在ってのお願(yuàn)いは比翼の鳥となることである」の漢詩(shī)文の落款が押捺されている。この漢詩(shī)は「白氏文集」に由來(lái)するものです。
つまり、原文の內(nèi)容に関する漢詩(shī)の落款を押捺しているのは、茶會(huì)における床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)の際に、茶會(huì)を主催する亭主が、客に「最高のごちそう」を振る舞うために披露したものです。茶會(huì)の際に落款に記された由來(lái)を知った客が広くそのことを社會(huì)に広めたために結(jié)果的に、多くの茶會(huì)に開催される「最高のごちそう」として原文に関係する漢詩(shī)の落款を付したものです?!嘎淇睢工螡h詩(shī)の由來(lái)を待合において説明する際に、長(zhǎng)い時(shí)間を要し、茶會(huì)における貴重な時(shí)間であったと推定されております。


自筆の希少価値について 自筆の稀少価値は、和紙の生成技法の緻密さにあります。上の「拡大斷層(MRI)寫真」でわかる通り、極めて薄い和紙の上に墨の文字がくっきりと浮き上がるように「源氏物語(yǔ)」の文字が記されております。
出品している書の「斷層(MRI)寫真」の原板は、レントゲン寫真と同じ新聞の半分ほどの大きさのフィルムです。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。日本國(guó)內(nèi)では醫(yī)療用以外には見ることのできない書の「斷層(MRI)寫真」です。
古切の書は、一旦表裝を剝離し分析と鑑定検査のために「斷層(MRI)寫真撮影」をしております。撮影後、展示のために再表裝をしております。掛軸や屏風(fēng)にすることが可能なように、「Removable Paste(再剝離用糊)」を使用しているため、自筆の書に影響をあたえずに、容易に「剝離」することができるような特殊な表裝となっております。

斷層(MRI)寫真 従來(lái)、日本の古美術(shù)の鑑定の際の分析?解析は、エックス線寫真、赤外寫真、顕微鏡が中心です。一方、アメリカやイギリスでは研究が進(jìn)み和紙の組成狀況を精確に分析?解析をするために斷層(MRI)寫真が利用されており、今回の出品に際し、「斷層(MRI)寫真」を資料として出しました。本物を見分けるための歐米の進(jìn)んだ分析?解析技術(shù)を見ることができます。

寸法 「源氏物語(yǔ)」自筆の大きさ タテ21.8センチ ヨコ12.8センチ。額縁の大きさは タテ37.0センチ ヨコ28.0センチです。額縁は新品です。

「源氏物語(yǔ)」の自筆について 1?筆跡の分析について
 國(guó)內(nèi)における鑑定人は、自筆の筆者を識(shí)別するために、個(gè)々の文字ごとに字畫線の交叉する位置や角度や位置など、組み合わせられた字畫線間に見られる関係性によって、個(gè)人癖の特徴を見出して識(shí)別する方法、また個(gè)々の文字における、畫線の長(zhǎng)辺、灣曲度、直線性や斷続の狀態(tài)、點(diǎn)畫の形態(tài)などに見られる筆跡の特徴によって識(shí)別する方法、そして、書の勢(shì)い、速さ、力加減、滑らかさ、などの筆勢(shì)によって識(shí)別する方法が一般的な手法です。
一方、歐米では一般的には、「筆者識(shí)別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析をコンピューターの數(shù)値によって解析しております。數(shù)値解析は、文字の筆順に従いX、Y座標(biāo)を読み、そのX、Y座標(biāo)をコンピューターへ入力後、コンピューターによって多変量解析を行うものです。解析の基準(zhǔn)となるのが「ドーバート基準(zhǔn)」で、アメリカでは日本國(guó)內(nèi)の畫像データを自動(dòng)的に収集、自筆の分析に際し、數(shù)値データをコンピューターで自動(dòng)的に解析し「極似」した畫像データによって筆者を識(shí)別する研究が進(jìn)んでおります。

2?大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)の自筆の特定について
自筆の筆者は、書體、書風(fēng)から京都の公卿によって書かれたものであるはわかっていたが、昭和38年以來(lái)、筆者名は特定されていなかった。その後、「筆者識(shí)別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析と並行し、奧書の「宗」の字の下の文字が判読できずにいた。それが、技術(shù)の進(jìn)歩により「宗」の下の文字が「氏」と判読された結(jié)果、南北朝時(shí)代から室町時(shí)代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」であることが判明した。
「源氏物語(yǔ)」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複數(shù)の年號(hào)の記載があることから、大炊御門宗氏が23歳から31歳までの間に書かれたものと推定されている。宗氏は、正二位?內(nèi)大臣まで昇進(jìn)したのち、応永28年(1421)47歳で沒(méi)している。

3?自筆「源氏物語(yǔ)」の舊?所蔵者の特定の経緯について
近衛(wèi)基熙の舊?所蔵の特定は、「花押」の寫真照合技術(shù)によるものです。アメリカのコンピューターを用い、「筆者識(shí)別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析を、花押の照合に応用し、指紋の照合方法と同じ手法により99.9パーセントの確率で特定に至ったものです。

4?近衛(wèi)基熙(このえもとひろ)について
近衛(wèi)基熙は、慶安元年(1648年)3月6日、近衛(wèi)尚嗣(関白?左大臣)の長(zhǎng)男として誕生。母は後水尾天皇皇女女二宮。実母は近衛(wèi)家女房(瑤林院)。幼名は多治丸。父、尚嗣が早世し、尚嗣と正室女二宮の間には男子がなかったため、後水尾上皇の命により、近衛(wèi)家の外にあった基熙が迎えられて上皇の保護(hù)下で育てられた。 承応3年(1654年)12月に元服して正五位下に敘せられ、左近衛(wèi)権少將となる。以後、摂関家の當(dāng)主として累進(jìn)し、翌年明暦元年(1655年)従三位に上り公卿に列せられる。明暦2年(1656年)に権中納言、萬(wàn)治元年(1658年)に権大納言となり、寛文4年(1664年)11月23日には後水尾上皇の皇女常子內(nèi)親王を正室に賜った。寛文5年(1665年)6月、18歳で內(nèi)大臣に任じられ、寛文11年(1671年)には右大臣、さらに延寶5年(1677年)に左大臣へ進(jìn)み、長(zhǎng)い時(shí)を経て元祿3年(1690年)1月に関白に昇進(jìn)した。近衛(wèi)基熙は、寛文5年(1665年)から晩年まで『基熈公記』で知られる日記を書いている

HP 近衛(wèi)基熙?舊所蔵「源氏物語(yǔ)」自筆を出品いたしました。 出品以外の所蔵品を紹介した出品者のホームページ「源氏物語(yǔ)の世界」をご覧ください。

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