仙臺藩12代藩主?伊達(dá)斉邦の正室?伊達(dá)徽子(のりこ)?自筆「百人一首」の和歌

元々は、茶會の「茶掛」として掛軸に表裝されておりました。

海外展示の際に「額縁」に裝丁されたものです。

伊達(dá)徽子(のりこ)の和歌は「ちらし書」と呼ばれる書法です。文字を散らして布置するわが國獨(dú)自の書き方です。この書法の歴史は平安時代の康保3年(967)の「紙背仮名消息」(滋賀?石山寺)、同じく平安時代の公卿?藤原公任(きんとう)自筆『北山抄』「仮名消息」(京都國立博物館)が知られております。各行に高低の変化をつけ、流暢(りゅうちょう)に続く連綿はきわめて美しいもので「百人一首」の書法として平安時代の公卿卿などの間で広まり、その後大名家の姫君の間で用いられておりました。

自筆下部の印は、伊達(dá)斉邦の正室で綏姫(まさひめ)の落款?「綏」と「徽子」(印譜)


原本自筆上部には、「東風(fēng)厚薄無隨例到衡門」《東風(fēng)(とうふう)厚薄(こうはく)無(な)く例(れい)に隨(したが)いて衡門(こうもん)に到(いた)る》漢詩の意味は「春風(fēng)はえこひいきなく吹き渡り、例年のように、わび住まいのわが家の門にもやってきた?!工趣いΔ猡韦扦埂?この漢詩は、中國?中國,宋末(1275年頃)の詩人?真山民(しんさんみん)宋末時代に戦亂を逃れ、人に知られることを求めず、自分で山民と稱した。最も有名な漢詩が「新春」でなかでも「東風(fēng)厚薄無隨例到衡門」の漢詩は年賀狀などでしきりに用いられていた。 伊達(dá)斉邦の正室で嫁いだ後も綏姫(まさひめ)と稱された伊達(dá)徽子(のりこ)は、和歌や漢詩の素養(yǎng)もある教養(yǎng)のある女性として知られておりますが、「百人一首」を記す際、漢詩を読み理解し共鳴していることがよくわかる。詳細(xì)な理由は下記説明欄に記載。

出品した「百人一首」自筆の內(nèi)容(原文の読み下し文)は次の通りです。


「法性寺入道前関白太政大臣(ほっしょうじさきのかんぱくだいじょうだいじん)」


「わたのはら(原)こ(漕)きいて(出)ゝ見れはひさかたの   

            雲(yún)井にまかふおき(沖)つしら(白)なみ(波)」


(文責(zé)?出品者)
「原文の読み下し文」は、読みやすいように「通行訳」(教科書仕様)としております。


(原文の現(xiàn)代語訳)

「法性寺入道前関白太政大臣(ほっしょうじさきのかんぱくだいじょうだいじん75)」


「大海原に舟を漕ぎ出して眺めわたすと、

            雲(yún)と見まがうばかりに沖の白波が立っていることだ?!?



現(xiàn)代語訳の出典:「小倉百人一首」鈴木日出男(東京大學(xué)名譽(yù)教授)

備考:「法性寺入道前関白太政大臣(ほうしょうじにゅうどうさきのかんぱくだいじょうだいじん)」は、「藤原忠通(ふじわらのただみち)」のこと。 承徳元~長寛二(1097-1164) 。関白太政大臣忠実の息子。母は右大臣源顕房のむすめ、従一位師子。左大臣頼長?高陽院泰子の兄?;鶎g?基房?兼実?兼房?慈円?覚忠?崇徳院后聖子(皇嘉門院)?二條天皇后育子?近衛(wèi)天皇后呈子(九條院)らの父。忠良?良経らの祖父。堀河天皇の嘉承二年(1107)四月、元服して正五位下に敘され、昇殿?禁色を許され、侍従に任ぜられる。鳥羽天皇代、右少將?右中將を経て、天永元年(1110)、正三位。同二年、権中納言に就任し、従二位に昇る。同三年、正二位。永久三年(1115)正月、権大納言。同年四月、內(nèi)大臣。保安二年(1121)三月、白河院の不興を買った父忠実に代わって関白とる。同三年、左大臣?従一位。崇徳天皇の大治三年(1128)十二月、太政大臣。近衛(wèi)天皇代にも摂政?関白をつとめたが、大治四年(1129)の白河院崩後、政界に復(fù)帰した父と対立を深め、久安六年(1150)には義絶されて職を弟の頼長に奪われた。以後美福門院に接近し、久壽二年(1155)の後白河天皇即位に伴い忠実?頼長が失腳した結(jié)果、氏長者に返り咲いた。保元三年(1158)、関白を長子基実に譲る。


「額縁入原本」


(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。)

「自筆原本」



寫真によって大名の正室らしい品格のある書の勢いと速さを確認(rèn)することができる。
仙臺藩12代藩主?伊達(dá)斉邦の正室?伊達(dá)徽子(のりこ)の書體は、漢文と違った和歌の素養(yǎng)を発揮しなめらかで、やわらかな書體は茶室の雰囲気を重厚なものにさせた。下の印は、伊達(dá)斉邦の正室で伊達(dá)徽子(のりこ)の落款。
原本自筆上部には、「東風(fēng)厚薄無隨例到衡門」《東風(fēng)(とうふう)厚?。à长Δ悉o(な)く例(れい)に隨(したが)いて衡門(こうもん)に到(いた)る》漢詩の意味は「春風(fēng)はえこひいきなく吹き渡り、例年のように、わび住まいのわが家の門にもやってきた?!工趣いΔ猡韦扦埂?



參考資料:「法性寺入道前関白太政大臣」


出典?財団法人小倉百人一首文化財団?所蔵




「百人一首」原本の和歌番號100(順徳院)に記されている仙臺藩の藩印

寫真右下の角印が仙臺藩の家紋?。ㄖ瘠巳福?BR> 家紋印の上の2つの印は仙臺藩主第12代藩主?伊達(dá)斉邦の正室?綏姫(まさひめ)の印?!附棥梗à蓼担─?、「綏姫(まさひめ」の略?!附棅à蓼丹窑幔埂富兆樱à韦辘常工弦吝_(dá)徽子のこと。
原本自筆上部には、「東風(fēng)厚薄無隨例到衡門」《東風(fēng)(とうふう)厚薄(こうはく)無(な)く例(れい)に隨(したが)いて衡門(こうもん)に到(いた)る》漢詩の意味は「春風(fēng)はえこひいきなく吹き渡り、例年のように、わび住まいのわが家の門にもやってきた?!工趣いΔ猡韦扦?。新春正月に歌われる有名な漢詩です。
右端の寫真上は仙臺藩主(伊達(dá)家)正室一覧表の表紙。表紙の下は一覧の拡大寫真(仙臺市立博物館?刊行)


「額縁裏面ラベルと仙臺城復(fù)元寫真」


上段が、額縁裏面ラベル。下段の寫真は仙臺城の復(fù)元寫真)。


「斷層畫像寫真」


《斷層畫像寫真番號(和歌番號と同じ)》
拡大畫像によって大名の夫人らしい品格のある書の勢いと速さを確認(rèn)することができる。
伊達(dá)斉邦の正室で伊達(dá)徽子(のりこ)は、漢文と違った和歌の素養(yǎng)を発揮しなめらかで、やわらかな書體は、茶室の雰囲気を重厚なものにさせた。

仙臺第12代藩主正室?伊達(dá)斉邦の正室で伊達(dá)徽子(のりこ)?自筆(直筆)「百人一首」を出品
自筆者に関する説明 自筆「百人一首」自筆には、「綏」と「徽子」の落款がある。 仙臺藩12代藩主?伊達(dá)斉邦の正室の伊達(dá)微子(のりこ)は、嫁いだ後も綏姫(まさひめ)と稱された。 伊達(dá)徽子(のりこ)の父は仙臺藩11代藩主?伊達(dá)斉義。ただし夫の12代藩主?伊達(dá)斉邦は伊達(dá)宗充の子で血縁関係はない。文政6年(1828)~文久元年(1861)伊達(dá)徽子は39歳で沒した。このため、出品した「百人一首」は、まだ若いころの自筆であることがわかる。筆致に若い女性特有のやわらかい筆跡がみてとれる。
自筆 自筆切の稀少価値は、和紙の生成技法の緻密さにあります。日本の和紙の場合、極めて薄い和紙の上に墨の文字がくっきりと浮き上がることが斷層畫像寫真によって鮮明となります。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。今回出品した原本は日本の和紙とは異なり布の繊維をすり潰して微細(xì)化したものであることがわかりました。この技術(shù)の製法はオランダの風(fēng)車による製紙「zaansch bord」という厚手の紙であることがわかりました。このことから當(dāng)時の12代仙臺藩主伊達(dá)斉邦が長崎?出島のオランダ商人を通し 入手したものであることがわかりました。日本の和紙は(す)く製法であるため和紙の繊維が斷層畫像寫真によって一本一本が立體的に見えます。オランダ渡來の髪と性質(zhì)が異なるのはこのためです。は茶會用の掛軸から外され海外展示のために再表裝をしております。掛軸や屏風(fēng)にすることが可能なように、「Removable Paste(再剝離用糊)」を使用しているため、自筆の書に影響をあたえずに、容易に「剝離」することができるような特殊な表裝となっております。

寸法 「百人一首」原本の大きさ タテ23.7センチ ヨコ16.4センチ。額縁の大きさは、タテ40.0センチ ヨコ30.0センチ。額縁は新品です。

解読文 出品した書には、「原文の読み下し文?現(xiàn)代語訳文」(解読文)を掲示し、平易に解読し読むことができるようにしております。

稀少価値 所蔵経緯(來歴)
1?自筆「百人一首」には、仙臺藩12代藩主?伊達(dá)斉邦の正室の伊達(dá)微子(のりこ)の押捺がある。

HP 伊達(dá)徽子(のりこ)?自筆「百人一首」の和歌の書を出品いたしました。出品以外の所蔵品を紹介した出品者のホームページ「源氏物語の世界」をご覧ください。

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