




序章:モノ言わぬモノの雄弁
やあ、また來たか、好事家ども。あるいは、ただの冷やかしかな? どちらでも構(gòu)わぬ。この魯山人の前に座るということは、それなりの覚悟があってのことだろう。巷に溢れるは、魂の抜け殻のようなガラクタばかり。それを寄ってたかって褒めそやし、高値で売り買いする。愚の骨頂とはこのことじゃ。
今日、諸君の前に差し出すは、F0125という無味乾燥な記號で呼ばれる一つの十字架。前回、前々回と、その片鱗には觸れたつもりじゃが、どうやら諸君らは、まだその真髄の入り口でうろちょろしておるに過ぎんようだ。良いか、モノというものは、ただそこにあるだけではない。それは、沈黙のうちに、數(shù)多の物語を內(nèi)包し、我々に語りかけてくる。その聲を聞き取る耳を持つか、持たぬか。それが、真の目利きと、ただの蒐集家を分かつ境目なのじゃ。
この十字架。一見すれば、灑落た裝身具。しかし、その実、この小さな物體には、地球の奧深くで育まれた鉱物の奇跡、人間の叡智と技巧の粋、そして數(shù)千年にわたる文明の興亡と美意識の変遷が、複雑なタペストリーのように織り込まれておる。それを解きほぐし、味わい盡くすことこそ、真の贅沢というもの。高級料亭で珍奇な食材を並べ立てるだけが能ではないわ。
さあ、準備は良いかな? 長い長い、しかし退屈とは無縁の旅が始まる。この魯山人が水先案內(nèi)人じゃ。迷わぬよう、しっかりとついてくるがよい。
第一部:蒼き深淵への誘い サンタマリアアクアマリン、その魂の在処
まず、この十字架の心臓部。0.25カラットのサンタマリアアクアマリン。アクアマリン、「海の水」を意味するこの石は、ベリルという鉱物の一種じゃ。鉄分を含むことで、あの獨特の青色が生まれる。エメラルドも同じベリルだが、こちらはクロムやバナジウムによって緑色を呈する。兄弟のようなものじゃが、その個性は全く異なる。エメラルドが新緑の生命力を謳歌する陽性の輝きとすれば、アクアマリンは、どこか內(nèi)省的で、靜謐な、陰影を伴う美しさを持つ。
特に「サンタマリア」の名を冠するものは格別じゃ。ブラジルのミナスジェライス州、サンタマリア?デ?イタビラ鉱山。まるで、最高の酒米「山田錦」の中でも、兵庫県の特A地區(qū)で収穫されたものだけが特別な扱いを受けるのに似ておる。この鉱山から産出されるアクアマリンは、他の産地のものとは一線を畫す、深く、そしてわずかにインディゴを含むかのような、濃密な青色を特徴とする。それは、単に色が濃いというだけではない。內(nèi)側(cè)から発光するような、不思議な力強さと透明感を併せ持つのじゃ。
近年では、アフリカのモザンビークなどでも、このサンタマリアに匹敵する色合いのアクアマリンが産出されるようになり、「サンタマリア?アフリカーナ」などと呼ばれることもあるが、やはり本家本元のサンタマリアが持つ、ある種の「気品」と「歴史的背景」は揺るがぬ。このF0125のアクアマリンが、そのいずれであるかまでは鑑別書にも明記されておらんが、この寫真から見て取れる色の深さと透明度は、まさしく「サンタマリアカラー」と稱されるにふさわしい。
0.25カラット。小指の爪ほどの大きさにも満たぬかもしれん。しかし、寶石の価値は、大きさだけで決まるものではない。料理とて同じこと。伊勢海老や鮑を山と積んだところで、下ごしらえが悪ければ、ただの餌じゃ。このアクアマリンは、小さくとも、その一粒に凝縮された色の深み、輝きの質(zhì)が、大粒の凡庸な石を遙かに凌駕する。まさに「山椒は小粒でもぴりりと辛い」を地で行く存在よ。
この石のカットはミックスカット。上部はブリリアントカットに近いファセットで輝きを最大限に引き出し、下部はステップカットで色の深みを強調(diào)するかのような、計算された仕上げじゃ。職人の腕が試されるところよな。光が內(nèi)部で複雑に反射し、石の中に小さな宇宙を閉じ込めたかのよう。覗き込むほどに、その青の深淵に吸い込まれそうになる。それは、晴れた日のエーゲ海のようでもあり、夜明け前の澄み切った日本の空のようでもあり、あるいは、修行僧が座禪の果てに見る內(nèi)なる宇宙の光景かもしれん。
古代ローマの博物學者プリニウスは、「博物誌」の中で、アクアマリンを「海の緑の寶石」と記し、その美しさを稱賛した。船乗りたちが、嵐を鎮(zhèn)め、安全な航海をもたらす護符として珍重したという話は有名じゃな。大洋の女神の涙が結(jié)晶したものだとか、人魚の寶物だとか、ロマンチックな伝説も數(shù)多い。いつの時代も、人間は、この神秘的な青い石に、海の力、癒しの力、そして未知なる世界への憧憬を重ねてきたのじゃ。
第二部:白き金屬の叡智 K18WG無垢、その understated elegance
このサンタマリアアクアマリンを優(yōu)しく、しかし力強く抱擁するのは、K18ホワイトゴールド無垢の地金。WGK18と刻印されておるな。75%の金に、パラジウムや銀、ニッケルなどを割り金として加えることで、あの獨特の白い輝きを生み出す。
ホワイトゴールドの歴史は、プラチナのそれと深く関わっておる。プラチナは18世紀にヨーロッパで本格的に知られるようになったが、その融點の高さ(約1770℃)から加工が難しく、また産出量も限られていたため、非常に高価な金屬であった。20世紀初頭、特に第一次世界大戦後、プラチナの価格がさらに高騰し、寶飾業(yè)界は代替となる白い貴金屬を渇望した。そこで開発されたのがホワイトゴールドじゃ。當初は「プラチナの代用品」という、やや不名譽なレッテルを貼られたこともあったやもしれん。
しかし、愚かなことよ。素材に貴賤はない。それぞれの持ち味をどう活かすか、それが肝心なのじゃ。ホワイトゴールドは、プラチナに比べて硬度が高く、加工しやすいという利點がある。また、プラチナのやや青みがかったクールな白さとは異なり、より溫かみのある、柔らかな白い輝きを持つ。このF0125の十字架では、アクアマリンの冷たい青に対して、ホワイトゴールドの穏やかな白が、絶妙なコントラストを生み出し、石の美しさを一層際立たせておる。もしこれが、ギラギラとしたイエローゴールドであったなら、アクアマリンの繊細な色調(diào)は打ち消されてしまったかもしれん。プラチナであったなら、ややストイックに過ぎたかもしれぬ。この「塩梅」こそが、職人のセンスなのじゃ。
料理で言えば、出汁のようなものか。最高の昆布と鰹節(jié)で引いた一番出汁は、それ自體がご馳走だが、他の素材の味を引き立てるという重要な役割も擔う。このホワイトゴールドも、アクアマリンという主役を引き立てつつ、自らも品格ある輝きを放っておる。まさに「understated elegance」、控えめな気品というやつじゃな。これ見よがしではないが、確かな存在感がある。
5グラムという重さも、心地よい。手に取れば、ひんやりとした金屬の感觸と共に、ずしりとした確かな手応え。中空の安物とは違う、無垢材ならではの充実感じゃ。これが、身に著けたときに、適度な重みとなって、持ち主に安心感と、ある種の「覚悟」のようなものを與えるのかもしれん。
第三部:十字に宿る物語 デザインの源流と歴史の殘響
さて、この十字架の形狀そのものに目を向けよう。33mm×24.2mm。大きすぎず、小さすぎず。男性が著ければ知的なアクセントとなり、女性が著ければ凜とした気品を添えるであろう、絶妙なサイズ感。
十字というシンボルは、キリスト教の象徴としてあまりにも有名じゃが、その起源は遙か古代に遡る。太陽十字、アンク(エジプト十字)、スワスティカ(鉤十字、ただしこれは後に不幸な歴史を背負うことになるが)など、世界各地の古代文明で、生命、太陽、宇宙、豊穣、あるいは四方位といった根源的な概念を表すシンボルとして用いられてきた。人類が、世界を認識し、そこに意味を見出そうとした最初の試みの一つと言えるやもしれん。
このF0125の十字架は、いわゆるラテン十字(縦長)を基本としながらも、その先端の意匠が特徴的じゃ。前回は百合の紋章(フルール?ド?リス)のようだと申したが、さらに深く見てみよう。先端が三つに分かれ、それぞれが優(yōu)美な曲線を描きながら広がっておる。これは、ゴシック建築に見られるトレーサリー(窓飾り格子)のモチーフや、ケルト美術(shù)に見られる組紐文様の一部を想起させる。
ゴシック建築。12世紀のフランス、サン=ドニ大聖堂のシュジェール院長が提唱した「光の神學」?!干瘠瞎猡胜辍埂%攻匹螗丧哎楗工蛲à筏坡}堂內(nèi)に降り注ぐ色彩豊かな光こそが、神の栄光の可視的な顕現(xiàn)であると考えた。その結(jié)果、壁は薄く、窓は大きく、天井は高く、天を目指すかのような尖塔が林立する、あの獨特の建築様式が生まれた。當時の金細工師たちもまた、聖遺物箱や聖杯などに、建築的な要素や、精緻な彫金、寶石の象嵌を施し、神の國の荘厳さを地上に再現(xiàn)しようと試みた。この十字架の先端の意匠には、そうした中世の職人たちの、神への畏敬と美への渇望が、微かにではあるが響いているように感じられる。
また、この先端の形狀は、植物の若芽や、開花寸前の蕾のようにも見える。生命力、成長、再生といったテーマも感じ取れる。アクアマリンが「海の水」、つまり生命の源を象徴するとすれば、このデザインは、その生命力が四方へと広がり、花開いていく様を表しているのかもしれん。
十字架の中央、アクアマリンが留められている部分は、わずかに盛り上がり、四方から石を支える爪が見える。このセッティングも丁寧な仕事じゃ。石の輝きを最大限に活かすため、光を遮る金屬部分は最小限に抑えられ、かつ石を確実に保持するという、相反する要求を満たさねばならぬ。これもまた、職人の技量を示すポイントよ。
この十字架のデザインは、特定の時代様式に完全に合致するというよりは、複數(shù)の歴史的要素を昇華し、現(xiàn)代的な感性で再構(gòu)築したものと言えるやもしれん。それは、日本の伝統(tǒng)的な料理人が、古くから伝わる調(diào)理法や食材を尊重しつつも、現(xiàn)代の味覚や感性に合わせて新たな一皿を創(chuàng)造するのに似ておる。伝統(tǒng)とは、ただ古きものを墨守することではない。その精神を現(xiàn)代に活かしてこそ、真に生き続けるのじゃ。
第四部:世界史の潮流と輝石、そして一皿の料理 壯大なる交響曲
この小さな十字架に、いかに世界史の大きなうねりが影響を與えているか。それを理解するには、少々遠回りが必要じゃ。
古代エジプト。ファラオたちは、ラピスラズリ、ターコイズ、カーネリアンといった寶石をふんだんに用いた裝飾品でその権威を飾った。それらの石は、神々との繋がりや、來世での永遠の生命を象徴しておった。彼らの食卓には、ナイルの恵みである魚や鳥、豊かな穀物、そしてビールやワインが並んだ。食と裝飾は、常に権力と宗教と密接に結(jié)びついておったのじゃ。
ギリシャ?ローマ時代。アレクサンドロス大王の東方遠征は、東西文化の融合をもたらし、インドやペルシャの寶石が地中海世界へ流入した。真珠、エメラルド、サファイア。ローマの貴族たちは、これらのエキゾチックな寶石で身を飾り、贅沢な宴を催した。ガルム(魚醤)やオリーブオイル、ワインを基調(diào)とした彼らの料理は、地中海の豊かな産物を反映しておった。この頃にはすでに、アクアマリンも知られ、珍重されておった。
中世ヨーロッパ。キリスト教が社會の隅々まで浸透し、教會が最大のパトロンとなった。聖書や聖人の生涯を描いた寫本には金箔や鮮やかな顔料が使われ、聖遺物箱は金銀寶石で荘厳に飾られた。十字架は信仰の最も重要なシンボルであり、様々な意匠のものが作られた。一方、庶民の食卓は質(zhì)素であったが、修道院では薬草栽培やワイン醸造の技術(shù)が発展し、後のヨーロッパ料理の基礎を築いた。十字軍の遠征は、悲劇的な側(cè)面もあったが、イスラム世界の進んだ文化や、香辛料、砂糖といった新たな食材をヨーロッパにもたらすきっかけともなった。
ルネサンス。イタリアのフィレンツェやヴェネツィアでは、メディチ家のような豪商が蕓術(shù)家や職人を庇護し、人間中心の華やかな文化が花開いた。レオナルド?ダ?ヴィンチやミケランジェロが活躍し、ベンヴェヌート?チェッリーニのような金細工師は、彫刻的とも言える見事な寶飾品を制作した。この時代、食卓もまた蕓術(shù)の域に高められ、趣向を凝らした料理や、精巧な砂糖菓子が宴を彩った。大航海時代が到來すると、新大陸から金銀と共に、エメラルド(コロンビア産)、ダイヤモンド、そして未知の食材(ジャガイモ、トマト、トウモロコシ、カカオ、唐辛子など)がヨーロッパにもたらされ、人々の生活と美意識、そして味覚に革命的な変化を引き起こした。このF0125のアクアマリンがサンタマリア産であるならば、その源流もまた、この大航海時代に始まるポルトガルによるブラジル植民地経営と無縁ではない。
絶対王政の時代。フランスのルイ14世に代表されるように、王侯貴族は莫大な富を背景に、ヴェルサイユ宮殿のような壯麗な建造物を築き、贅を盡くした寶飾品で身を飾り、豪華絢爛な宮廷料理に舌鼓を打った。ダイヤモンドのブリリアントカットが開発され、寶石はより一層輝きを増した。フランス料理の原型もこの頃に形成されたと言われる。
19世紀。産業(yè)革命は、新たな富裕層であるブルジョワジーを生み出し、寶飾品や美食の需要を拡大させた。一方で、機械による大量生産品が出回り始めると、ウィリアム?モリスらのアーツ?アンド?クラフツ運動のように、手仕事の価値を見直す動きも生まれた。アール?ヌーヴォーの時代には、ルネ?ラリックらが、自然界の有機的なフォルムや、それまで寶飾にはあまり用いられなかった素材(角、象牙、ガラスなど)を大膽に取り入れた、獨創(chuàng)的な作品を生み出した。このF0125の十字架に見られる流麗な曲線には、アール?ヌーヴォーの精神の殘り香を感じることもできるやもしれん。この頃、オーギュスト?エスコフィエがフランス料理を體系化し、「近代フランス料理の父」と稱された。素材の持ち味を活かし、ソースを洗練させ、盛り付けにも美を追求する彼の姿勢は、まさに寶飾デザイナーが寶石と貴金屬で美を追求する姿勢と通底しておる。
20世紀。二度の世界大戦は、価値観の大きな転換をもたらした。プラチナが軍需物資として統(tǒng)制された結(jié)果、ホワイトゴールドが寶飾品の主要な素材として定著したのもこの頃じゃ。アール?デコの直線的で幾何學的なデザインが流行し、ココ?シャネルは「リトル?ブラック?ドレス」と共に、模造寶石を用いたコスチューム?ジュエリーを大衆(zhòng)化させた。戦後は、世界的な経済成長と共に、寶飾品も美食も、より多様化し、個人の嗜好が重視される時代となった。
このように、この小さな十字架一つをとっても、その素材、デザイン、そしてそれを生み出した技術(shù)の背景には、世界史の大きな流れと、人々の美意識、生活様式の変遷が複雑に絡み合っておるのじゃ。それを知らずして、ただ「綺麗だ」「高い」などと言うのは、赤子の戯言に等しい。
料理とて同じことよ。例えば、我々が日常的に口にする醤油。そのルーツを辿れば、中國の醤(ひしお)に行き著き、それが日本に伝わって獨自の発展を遂げ、今日のような多様な醤油文化が花開いた。その過程には、気候風土、技術(shù)革新、そして何よりも、美味いものを求める人々の飽くなき探求心があった。一本の醤油差しにすら、壯大な歴史と文化が凝縮されておるのじゃ。この十字架もまた、醤油差しと同様に、人類の叡智と美への渇望の結(jié)晶なのじゃ。
第五部:魯山人の美學との共鳴、あるいは靜かなる対峙
さて、この魯山人が、このF0125の十字架をどう見るか。フン、勿體ぶることもあるまい。一言で言えば、「悪くない」。いや、むしろ「かなり良い」と言っても差し支えあるまい。
わしが作る器は、何よりもまず「用」を第一とする。料理を盛ってこそ、その真価が発揮される。飾って眺めるだけの骨董ではない。この十字架もまた、裝身具としての「用」をしっかりと満たしておる。身に著けたときに、持ち主を引き立て、かつ心地よい存在感を放つ。これは重要なことじゃ。
そして、素材への敬意。わしは土と炎と格闘し、その素材が持つ可能性を最大限に引き出そうと努める。この十字架もまた、アクアマリンという石、ホワイトゴールドという金屬、それぞれの特性を熟知した職人が、丁寧にその持ち味を引き出しておるのが見て取れる。特に、アクアマリンの色の深さと透明感は、まさに「サンタマリアカラー」の名に恥じぬもの。これを曇らせることなく、むしろその輝きを増幅させるようなデザインとセッティングは見事というほかない。
わしの好みから言えば、もう少し「土臭さ」というか、人間の手の痕跡が殘っていても良いかとは思う。あまりに洗練されすぎると、どこか冷たい印象を與えることもあるからのう。しかし、この十字架の洗練は、冷たさではなく、むしろ清冽さ、潔さといった趣きに繋がっておる。これはこれで一つの完成された美の形じゃろう。
わしは、織部や志野、備前といった日本の古陶を愛するが、それは単に古いからではない。そこに、作り手の「心」と、日本の風土が生み出した「美」が凝縮されておるからじゃ。この十字架には、西洋的な美意識が色濃く反映されておるが、その根底にある「本物」を求める精神は、わしの美學と何ら変わるところはない。良い仕事は、東洋も西洋もないのじゃ。
もし、わしがこの十字架に合う料理を考えるとすれば…そうじゃな、例えば、冷たく澄んだガラスの器に盛られた、夏の鮎の洗い、だろうか。あるいは、雪のような白磁の皿に、ほんの一切れだけ添えられた、極上の本鮪のトロ。素材そのものの良さを最大限に活かし、余計な飾りは一切排した、潔い一品。この十字架の持つ、清冽で気品ある美しさは、そういった料理と響き合うように思う。
あるいは、わしが好んで描く墨竹図。墨の濃淡だけで、竹の生命力、風雪に耐える強靭さ、そして蕭然とした気品を表現(xiàn)する。この十字架もまた、青と白という限られた色彩の中で、深遠な精神性を感じさせる。通じるものがあるのう。
第六部:星岡窯の片隅にて ひとつの邂逅(フィクション)
少し昔の話をしようか。まだ星岡窯が賑わいを見せていた頃じゃ。ある時、ふらりと一人の異人が訪ねてきた。年の頃は五十がらみ、仕立ての良いツイードのジャケットを著て、物靜かな男じゃった。彼は、わしの器をいくつか買い求めたいと言う。そして、話の流れで、彼が小さな寶石商を営んでおることを知った。
彼は、懐から小さな革袋を取り出し、中から一つのペンダントを見せた。それは、このF0125によく似た意匠の十字架じゃったが、中央にはアクアマリンではなく、小粒ながらも燃えるような赤色のルビーが嵌められておった。地金はプラチナだったか。
「魯山人先生、あなたはこの十字架をどう思われますか?」と彼は尋ねた。
わしは、それを手に取り、じっくりと眺めた。細工は丁寧で、ルビーの質(zhì)も悪くない。しかし、何かが違う。何かが足りぬ。
「フン。悪くはないが、魂が震えんのう」とわしは答えた。「このルビーは美しい。だが、この十字架の形と、どこか馴染んでおらん。まるで、取ってつけたようだ。プラチナの冷たさが、ルビーの情熱を殺しておるようにも見える。料理で言えば、素材の組み合わせが悪い。最高の松茸を、どぎついデミグラスソースで煮込むようなものじゃ」
男は、少し驚いたような顔をしたが、やがて靜かに頷いた?!浮丹工扦工?。実は、これは顧客の注文で作ったものなのですが、私もどこか腑に落ちない點があったのです。先生のご意見、大変參考になりました」
彼は、その十字架をしまうと、今度は別の小さな包みを開いた。中から出てきたのは、まさしくこのF0125のような、アクアマリンを中央に據(jù)えたホワイトゴールドの十字架じゃった。ただし、それはもっと古びており、長年使い込まれたような風合いがあった。
「これは、私の祖母の形見です。彼女は敬虔なクリスチャンで、若い頃、船乗りだった祖父から贈られたものだと聞いています。祖父は、嵐の海でこの十字架に祈り、九死に一生を得たとか…」
わしは、その古びた十字架を手に取った。それは、新しいものにはない、溫かみと、物語を秘めた輝きがあった。アクアマリンの色は、このF0125ほど濃くはなかったが、どこまでも澄んでおり、ホワイトゴールドは長年の摩擦で角が取れ、持ち主の肌に馴染むように滑らかになっておった。
「これじゃ」とわしは言った。「これには、魂が宿っておる。作り手の技だけでなく、持ち主の想い、そして時間が、この十字架を育てたのじゃ。寶石も金屬も、ただの物質(zhì)ではない。人の想いを受け止め、記憶を刻み込む、器のようなものなのじゃな」
男は、深く感動した面持ちで、わしの言葉に耳を傾けておった。彼が帰った後、わしはしばらく、あの古びたアクアマリンの十字架の面影を思い浮かべておった。そして、今日、このF0125の十字架を目の前にして、あの時の記憶が鮮やかに蘇ってきたというわけじゃ。
このF0125は、まだ新しい。持ち主の物語を刻むのは、これからじゃ。しかし、その素養(yǎng)は十分にある。良質(zhì)な素材、優(yōu)れたデザイン、そして丁寧な仕事。これらが揃っておれば、あとは持ち主が、いかに愛情を注ぎ、共に時を重ねるかじゃ。そうすれば、この十字架もまた、いつか誰かの「魂の器」となり得るやもしれん。
第七部:蒼き星の囁き F0125、その真価と未來の主へ
さて、長々と語ってきたが、そろそろ結(jié)論に入るとしようか。このF0125【CROSS】美しいサンタマリアアクアマリン0.25ct 最高級18金WG無垢男女兼用ペンダントトップ。その価値は、単にカラット數(shù)や地金のグラム數(shù)で測れるものではない。
まず、その美しさ。サンタマリアカラーのアクアマリンが放つ、深く澄んだ青。それは、見る者の心を捉え、靜謐な世界へと誘う力を持つ。ホワイトゴールドの柔らかな白い輝きが、その青を優(yōu)しく引き立て、洗練された気品を添える。十字架という普遍的なモチーフに、ゴシックやアールヌーヴォーの要素を感じさせる流麗なデザインが施され、古さと新しさが絶妙に調(diào)和しておる。
次に、その品質(zhì)。0.25カラットという控えめなサイズながら、アクアマリンの質(zhì)は極めて高い。透明度、色の濃さ、輝き、どれをとっても一級品じゃ。K18WG無垢という地金も、その質(zhì)の高さを物語る。丁寧なセッティング、細部にまで行き屆いた仕上げ。これらは、確かな技術(shù)を持つ職人の手によるものであることを示しておる。NGLの鑑別書も、その品質(zhì)を客観的に裏付けるものじゃろう。
そして、その背景にある物語性。アクアマリンという石が持つ海の伝説。十字架というシンボルが背負う數(shù)千年の歴史。ホワイトゴールドという素材が生まれた20世紀の科學技術(shù)。これら全てが、この小さなペンダントの中に凝縮されておる。これを身に著けるということは、そうした壯大な物語の一部を、自らの人生に取り込むということでもある。
男女兼用というのも良い。美に性別は関係ない。この十字架の価値を理解し、その美しさに共鳴できる者であれば、誰でもその主となる資格がある。男性が著ければ、それは內(nèi)に秘めた信念と知性の象徴となるであろう。女性が著ければ、それは凜とした強さと奧ゆかしいエレガンスの証となるであろう。
このF0125は、使い捨ての流行品ではない。むしろ、時を経るごとに味わいを増し、持ち主と共に成長していくような、そんな品じゃ。手入れを怠らず、大切に扱えば、次の世代へと受け継いでいくことも可能であろう。それは、まさにわしが作る器と同じ。使うほどに馴染み、持ち主の歴史を刻み込んでいく。
諸君、良いかね。この十字架を手にするということは、単に金銭と物質(zhì)を交換するということではない。それは、美意識への投資であり、文化への參加であり、そして何よりも、自分自身の感性を磨くという行為なのじゃ。
寫真だけでは、このアクアマリンの深遠なる青の揺らめき、ホワイトゴールドの肌觸り、そして手に取った時の確かな重みは、到底伝えきれん。実物を目にし、光にかざし、肌に觸れてみて初めて、その真価が理解できるというもの。
鑑別書に記された「コメント:アクアマリンには通常潛在的な美しさを引き出す特有の加工が行われています」という一文。これを気にする小人もおるやもしれん。しかし、考えてもみよ。最高の鮪を手に入れた料理人が、それをそのまま客に出すか? いや、血抜きをし、適切な溫度で熟成させ、最高の狀態(tài)で切りつける。その「手間」こそが、素材を「料理」へと昇華させるのじゃ。寶石の加工もまた同じこと。原石の持つポテンシャルを最大限に引き出し、その美しさを永遠に留めるための、職人の叡智と技術(shù)なのじゃ。結(jié)果として、これほどの輝きを我々の前に示しておる。それに異を唱えるは、野暮というものじゃ。
終章:汝の審美眼、今こそ試される時
フン。ずいぶんと長く語ってしまったな。喉が渇いたわい。誰か、美味い玉露でも淹れてくれんか。
さて、諸君。このF0125の十字架。その魅力の一端なりとも、理解できたかな? この十字架は、聲高に自己主張するような品ではない。むしろ、靜かに、しかし確かな存在感を放ち、持ち主の品格を高めるような、奧ゆかしい逸品じゃ。
巷には、ブランド名ばかりが先行し、中身の伴わぬ品々が溢れておる。あるいは、ただ奇抜なだけで、何の思想も哲學もないデザインもどき。そんなものに目を眩まされるようでは、真の美を見抜く眼は養(yǎng)われんぞ。
この十字架は、ある意味、試金石じゃ。これを見て、心が動かされるか、何も感じぬか。そこに、諸君の審美眼のレベルが表れる。もし、このアクアマリンの深い青に魂を揺さぶられ、この洗練されたデザインに知的な興奮を覚え、そしてこの品が內(nèi)包する歴史と文化の香りに思いを馳せることができたなら…その時こそ、この十字架は、君にとってかけがえのない寶となるであろう。
ヤフオクという、玉石混淆の市場に、このような品が出品されること自體、一つの奇跡やもしれん。多くのガラクタの中に埋もれ、その真価を見抜かれぬまま通り過ぎられてしまう可能性もあろう。だが、それでよい。本物は、本物を見抜く眼を持つ者の元へ、自ずと引き寄せられるものじゃ。
さあ、どうするかな? この「星河一天」(天の川が空一面に広がる壯大な光景、転じて広大無辺な宇宙の真理、あるいは比類なき逸品)とも言うべき十字架。ただの傍観者で終わるか、それとも、勇気をもってその美を手中に収めるか。決めるのは、他の誰でもない、君たち自身じゃ。
わしは、ただ、この稀有な美との邂逅の場を提供したに過ぎん。あとは、君たちの心に問いかけてみるがよい。この十字架が、君の人生に、どのような彩りを與えてくれるのかを。
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