


安政2年(1855)3月、江川太郎左衛(wèi)門が代官を務(wù)める多摩郡柳窪新田(東京都東久留米市)のあらゆる情報(bào)を書き上げた明細(xì)書(下書き)。
村の持高、人口と男女比、家の數(shù)、御朱印地?御除地、地理的情報(bào)、男女の仕事內(nèi)容、村の産物品と利用法を申告し、茶屋?旅籠屋?質(zhì)屋渡世の者などが村に存在しないと誓約している。
村方三役が関東取締出役の吉岡靜助?渡辺園十郎に提出している。
同年1月、江川太郎左衛(wèi)門英龍(坦庵)が死去、息子の江川英敏が太郎左衛(wèi)門を襲名した代替わりに際して、治安維持を目的におこなった村方調(diào)査の可能性がある。