サイズは、徑13,7×高さ8,2×高臺徑5,8㎝です。ほぼ未使用?無傷?美品です。一連のお茶道具はお茶の先生宅よりお譲りいただいたものです。
 陶蕓家 杉本 貞光さん   わびさびの美
「長次郎風(fēng)黒茶碗(ちょうじろうふうくろちゃわん)」「光悅風(fēng)赤茶碗(こうえつふうあかちゃわん)」「高麗の井戸茶碗(こうらいのいどちゃわん)」「織部茶碗(おりべちゃわん)」「信楽焼の蹲(うずくまる)」
杉本貞光(すぎもとさだみつ)さんの陶蕓展には格調(diào)の高い作品がずらりと並び、見る人を圧倒する。陶蕓作家として間もなく半世紀(jì)。一貫して求め続けてきたのは「時も人も超えた、わびさびの世界」。杉本さんの陶蕓への姿勢は入賞を求めるためではなく、國寶級の名品すら超えようという志の高いものだ。その背景には、京都?大徳寺の立花大亀老師(たちばなだいきろうし)との出會いがあった。
立花大亀老師との出會い
33歳のとき、杉本さんは信楽の古い壷に魅了され、陶蕓の世界に足を踏み入れた。だが、當(dāng)時は列島改造ブームの真っ最中。建設(shè)ラッシュのためビルの內(nèi)裝や外裝のレリーフ制作などの仕事に追われていた。
39歳のとき、「面白い坊さんがいる」と知人に紹介され、京都?大徳寺の立花大亀老師を訪ねた。そして老師に言われた。
「美術(shù)館でたくさんの國寶や重要文化財を見ているだろう? あれをどう思う?“わびさび” の思想から生まれた美術(shù)品はたくさんあるだろう」
千利休(せんのりきゅう)などが活躍した時代の美意識である「わびさび」は、徹底的に無駄を省いた究極の美だ。季節(jié)でいえば秋、一日でいえば夕暮れだろうか?
「桃山時代に返りなさい」
老師に言われたこの一言で、目からうろこが落ちた杉本さん。目指すのは「わびさびの世界」だと決心した。そのときからレリーフ制作をきっぱりやめ、民蕓風(fēng)の作陶や現(xiàn)代陶蕓からも手を引いた。
「地味で渋く、汚らしいのが『わびさび』ではありません?;偆瞧筏瑜?、おおらかで柔らかい。これがわびさびです」と杉本さんは言う。
立花大亀老師への師事を願い出た杉本さんは、老師から條件を二つ出された。
「作家活動をやめること」
「愚癡(ぐち)と弁解は言わないこと」
作家活動は己の個性を追究するもので、目標(biāo)は展覧會で賞を取ること?!袱铯婴丹印工趣悉彪xれた世界だ?!复_かに審査員はその道に詳しい。しかし、それはたった1人の目に過ぎない。何百年も時代を経て來た名品は、數(shù)え切れない人の目にさらされ、時代の変化に耐えて評価されている。つまり、『仏の目で選ばれているに近い』。審査員の目よりも仏の目、己の個性よりも普遍的な美、それが『わびさびの世界』だ」と老師に教えられたという。
杉本貞光 1935(昭和10-
1935 東京に生まれる
1968
 信楽山中に穴窯築窯
茶陶信楽とレリーフ制作
1974
 大徳寺立花大亀老師よりご教導(dǎo)を受け今日に至る
沖縄海洋博にレリーフ制作(レリーフ活動を終える)
1979
 茶陶伊賀の研究制作
大徳寺?如意庵にて個展
1981
 長次郎風(fēng)の黒茶碗、光悅風(fēng)の赤茶碗の研究制作
1985
 高麗物、井戸、粉引の研究制作
1992
 吉兆?湯木美術(shù)館に収蔵される
1994
 エール大學(xué)美術(shù)館に収蔵される
1995
 自然灰釉による彫塑の制作
1997
 施釉による彫塑の制作
1999
 古信楽土発見
2002
 京都?建仁寺晉山記念として井戸茶碗を納める