サイズは、徑12、5×高さ18、5×高臺徑7、5㎝です。塗り蓋徑10、3㎝です。時代による小傷はありますが、ダメージとなるようなホツやニュウはありません。箱は傷みがございます。 一連の茶道具はお茶の先生宅よりお譲りいただいたものです。 九谷莊三は、文化13年(1816)、能美郡寺井村(現(xiàn)、能美市寺井町)の農(nóng)業(yè)茶屋の子として生まれました。幼名は莊七といい、莊三と改めたのは嘉永年間(1848ー1854)頃で、九谷姓を名のるようになったのは明治に入ってからといわれます。 莊三は、再興九谷の諸窯からの招きを受け、陶工として手腕を発揮しましたが、自ら窯元とならず、若くして著畫を専業(yè)とする工房と錦窯を寺井村に開きました。その理由は、すでに肥前や瀬戸では素地作りと著畫のそれぞれの専業(yè)化が大量の需要に対応できる生産方式として普及していることを知り、當時、加賀の他の地域に先駆けて能美で始まっていた分業(yè)化の時流に乗ったと考えられます。 この方式は斉田伊三郎(道開)によっても行われ、隣の佐野村にも波及し、能美九谷の飛躍にとって大きな原動力となりました。 明治期に入り、著畫を専業(yè)とする莊三の工房はますます多くの陶工を抱える工房となり、素地を大量生産する本窯と協(xié)業(yè)して、九谷焼による殖産興業(yè)を推進させました。莊三は実業(yè)家としてもその役割を大いに果たし、産業(yè)工蕓としての九谷焼の産業(yè)基盤を築くことに大きく貢獻しました。 工房の作品は「莊三風」の精緻な上絵付が施され、明治九谷の中核をなすものとなりました。それらは貿(mào)易商人によって大量に輸出され、明治期の我が國貿(mào)易品として海外で大変好まれ、あわせて國內(nèi)でも販路を拡げました。