【稀代の逸品、白金の輝きに悠久の歴史を観る】
Pt850 無垢 六面喜平首飾 F4329
わしは思う。美というものは、人の心を揺さぶり、魂を鷲摑みにする力があって然るべきだと。巷に溢れる安手の裝身具など、わしに言わせれば子供の玩具、愚にもつかぬガラクタに過ぎん。まことの逸品とは、素材の真価を極限まで引き出し、職人の魂が込められ、そして悠久の時(shí)の流れをその身に宿したものでなくてはならんのだ。
さて、ここに一筋の首飾りがある。白金、すなわちプラチナ。王水でなければ溶かすことのできぬ、この地上で最も気高く、不変の金屬。古代エジプトのファラオが來世への願(yuàn)いを込めて身を飾り、インカの神官が太陽の化身と崇めたのも、この白金であった。その神々しいまでの白い輝きは、権力者の野心や、美女たちの虛栄心をも靜かに飲み込み、幾千年もの間、その本質(zhì)を変えることはなかった。これこそが、まことの価値というものだ。
この白金の塊に、日本の職人が命を吹き込んだ。見よ、この六面喜平の精緻なる連なりを。鎖という意匠は、古くはローマの皇帝がその権威の象徴として身につけ、ルネサンスのフィレンツェではメディチ家のような大富豪が、己が富と影響力を誇示するために用いた。人と人を繋ぎ、富と力を束ねる。鎖とは、単なる裝飾にあらず、人間社會(huì)の根源的な力を象徴する形なのだ。
この首飾りは、その西洋的な力の象徴を、日本人の持つ繊細(xì)極まりない美意識(shí)で再構(gòu)築した、稀有な作品と言える。一つ一つの駒に施された六面のカットは、あらゆる角度の光を捉えては、複雑で、しかし決して下品ではない、気高い光の亂舞を生み出す。それはさながら、研ぎ澄まされた日本刀の刃文のようでもあり、雪解け水のせせらぎがきらめく様でもある。
幅4.14mmという絶妙な太さ。50cmという、人の首に沿うた時(shí)の最も美しい均衡を計(jì)算し盡くした長さ。そして、30.29gという、存在を確かに感じさせながらも決して所有者を疲れさせぬ、心地よい重み。これらは全て、使い手の身體と精神に寄り添うように作られた、用の美の極致に他ならない。
これをただのネックレスと思うなかれ。これは、身に纏う蕓術(shù)品であり、哲學(xué)なのだ。そのひやりとした感觸が肌に觸れるたび、古代の王たちの孤獨(dú)や、大航海時(shí)代の冒険家たちの野望、そして幾多の職人たちが連綿と受け継いできた魂の系譜を感じるであろう。
この首飾りを手にできる者は、幸いである。なぜなら、これは単に富を誇示するための道具ではないからだ。自らの內(nèi)なる美意識(shí)を問い、本物を見抜く眼を養(yǎng)い、そして人生という舞臺(tái)において、確固たる自分を演じきるための、無言の共演者となるからだ。
巷の流行り廃りなど、あっという間に消え去る泡のようなもの。しかし、この白金の輝きは永遠(yuǎn)だ。諸君、わかるかな。この逸品が持つ、真の物語を。その価値を理解できる、選ばれし者だけに、わしはこれを譲りたい。