大炊御門宗氏?自筆「源氏物語」近衛(wèi)基熙?舊所蔵(斷簡)を出品 | ||||
商品説明(來歴) |
大炊御門宗氏?自筆「源氏物語」は、第107代後陽成天皇の曾孫?近衛(wèi)基熙の舊所蔵である。近衛(wèi)基熙は、「源氏物語」に造詣が深く、「源氏物語」の注釈書『一簣抄』(いっきしょう)を書いてある。出品した大炊御門宗氏?自筆「源氏物語」は、近衛(wèi)基熙が研究のために収集し、のちに近衛(wèi)家から出雲(yún)松江藩主?松平治郷(不昧公)の正室?方子(よりこ)に伝わり、方子の生家である仙臺藩から同藩の藩醫(yī)?木村壽禎に伝來していたものである。
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漢詩文 |
原文上部には「假色迷人猶若是」(仮の色、人を迷わす、なおかくのごとし)という漢文の篆書印が押捺されている。
言葉の意味は、「狐という仮の物が本物のように人を惑わせる。しかし、本當の美女(楊貴妃)が人を魅了するのは、往々にしてそれを超える」のです。この漢詩は白楽天の漢詩の有名な一節(jié)です。紫式部が「手習」を書くに際し、「白楽天?漢詩集」の漢詩を熟読したうえで「源氏物語」の「手習の巻」を書いていることがわかります。この原詩の言葉の引用は、「手習の巻」に用いられていることで広く知られている。紫式部がこの原詩に親しんでいたことがわかる。
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漢詩の落款の意味 |
原本上部の漢詩の落款は、「讃」と稱されるもので、古來、掛軸の書畫に第三者がお褒めの言葉を書き込むもので元々は自筆でした。貴族から始まり藩主、あるいは高名な茶人や僧侶が書かれて、それが茶會の「掛軸」に裝丁されて披露されておりました。
特に出雲(yún)?松江藩などの茶道の盛んな大名家の所蔵する自筆などに「讃」が付され、後に自筆に代わり、石刻による「漢詩」の篆書が「讃」として用いられました。
「茶事」は、「ヨーロッパの晩餐會(ばんさんかい)」とも言われます。晩餐會では、「ワインを楽しむために行われる」ところも似ています。とりわけ、茶室に入って行うことは、床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)することです。茶道では「掛け軸は最高のごちそう」といわれております。とりわけ、漢詩の落款は、ただ、古典の漢詩を入れればいいという単純なものではなく、たとえば、「源氏物語」の場合、原本の中に込められている紫式部が考えた知識を読み解くことにあります。
「讃」の中に有名な白楽天の漢詩を単純に落款として入れたのではなく、紫式部が原本の中に白楽天の漢詩を読み込んでいることを知ったうえで漢詩を選んでおります。
落款の「讃」の元になるその原文の個所には、 「假色迷人猶若是」(仮の色、人を迷わす、なおかくのごとし)という漢文の篆書印が押捺されている。この漢詩は「白氏文集」に由來するものです。 つまり、原文の內(nèi)容に関する漢詩の落款を押捺しているのは、茶會における床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)の際に、茶會を主催する亭主が、客に「最高のごちそう」を振る舞うために披露したものです。茶會の際に落款に記された由來を知った客が広くそのことを社會に広めたために結(jié)果的に、多くの茶會に開催される「最高のごちそう」として原文に関係する漢詩の落款を付したものです?!嘎淇睢工螡h詩の由來を待合において説明する際に、長い時間を要し、茶會における貴重な時間であったと推定されております。 |
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自筆の希少価値について |
自筆の稀少価値は、和紙の生成技法の緻密さにあります。上の「拡大斷層(MRI)寫真」でわかる通り、極めて薄い和紙の上に墨の文字がくっきりと浮き上がるように「源氏物語」の文字が記されております。 出品している書の「斷層(MRI)寫真」の原板は、レントゲン寫真と同じ新聞の半分ほどの大きさのフィルムです。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。日本國內(nèi)では醫(yī)療用以外には見ることのできない書の「斷層(MRI)寫真」です。 古切の書は、一旦表裝を剝離し分析と鑑定検査のために「斷層(MRI)寫真撮影」をしております。撮影後、展示のために再表裝をしております。掛軸や屏風にすることが可能なように、「Removable Paste(再剝離用糊)」を使用しているため、自筆の書に影響をあたえずに、容易に「剝離」することができるような特殊な表裝となっております。 |
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斷層(MRI)寫真 |
従來、日本の古美術(shù)の鑑定の際の分析?解析は、エックス線寫真、赤外寫真、顕微鏡が中心です。一方、アメリカやイギリスでは研究が進み和紙の組成狀況を精確に分析?解析をするために斷層(MRI)寫真が利用されており、今回の出品に際し、「斷層(MRI)寫真」を資料として出しました。本物を見分けるための歐米の進んだ分析?解析技術(shù)を見ることができます。 |
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寸法 |
「源氏物語」自筆の大きさ タテ21.8センチ ヨコ12.8センチ。額縁の大きさは タテ37.0センチ ヨコ28.0センチです。額縁は新品です。 |
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「源氏物語」の自筆について |
1?筆跡の分析について 國內(nèi)における鑑定人は、自筆の筆者を識別するために、個々の文字ごとに字畫線の交叉する位置や角度や位置など、組み合わせられた字畫線間に見られる関係性によって、個人癖の特徴を見出して識別する方法、また個々の文字における、畫線の長辺、灣曲度、直線性や斷続の狀態(tài)、點畫の形態(tài)などに見られる筆跡の特徴によって識別する方法、そして、書の勢い、速さ、力加減、滑らかさ、などの筆勢によって識別する方法が一般的な手法です。 一方、歐米では一般的には、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析をコンピューターの數(shù)値によって解析しております。數(shù)値解析は、文字の筆順に従いX、Y座標を読み、そのX、Y座標をコンピューターへ入力後、コンピューターによって多変量解析を行うものです。解析の基準となるのが「ドーバート基準」で、アメリカでは日本國內(nèi)の畫像データを自動的に収集、自筆の分析に際し、數(shù)値データをコンピューターで自動的に解析し「極似」した畫像データによって筆者を識別する研究が進んでおります。 2?大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)の自筆の特定について 自筆の筆者は、書體、書風から京都の公卿によって書かれたものであるはわかっていたが、昭和38年以來、筆者名は特定されていなかった。その後、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析と並行し、奧書の「宗」の字の下の文字が判読できずにいた。それが、技術(shù)の進歩により「宗」の下の文字が「氏」と判読された結(jié)果、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」であることが判明した。 「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複數(shù)の年號の記載があることから、大炊御門宗氏が23歳から31歳までの間に書かれたものと推定されている。宗氏は、正二位?內(nèi)大臣まで昇進したのち、応永28年(1421)47歳で沒している。 3?自筆「源氏物語」の舊?所蔵者の特定の経緯について 近衛(wèi)基熙の舊?所蔵の特定は、「花押」の寫真照合技術(shù)によるものです。アメリカのコンピューターを用い、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析を、花押の照合に応用し、指紋の照合方法と同じ手法により99.9パーセントの確率で特定に至ったものです。 4?近衛(wèi)基熙(このえもとひろ)について 近衛(wèi)基熙は、慶安元年(1648年)3月6日、近衛(wèi)尚嗣(関白?左大臣)の長男として誕生。母は後水尾天皇皇女女二宮。実母は近衛(wèi)家女房(瑤林院)。幼名は多治丸。父、尚嗣が早世し、尚嗣と正室女二宮の間には男子がなかったため、後水尾上皇の命により、近衛(wèi)家の外にあった基熙が迎えられて上皇の保護下で育てられた。 承応3年(1654年)12月に元服して正五位下に敘せられ、左近衛(wèi)権少將となる。以後、摂関家の當主として累進し、翌年明暦元年(1655年)従三位に上り公卿に列せられる。明暦2年(1656年)に権中納言、萬治元年(1658年)に権大納言となり、寛文4年(1664年)11月23日には後水尾上皇の皇女常子內(nèi)親王を正室に賜った。寛文5年(1665年)6月、18歳で內(nèi)大臣に任じられ、寛文11年(1671年)には右大臣、さらに延寶5年(1677年)に左大臣へ進み、長い時を経て元祿3年(1690年)1月に関白に昇進した。近衛(wèi)基熙は、寛文5年(1665年)から晩年まで『基熈公記』で知られる日記を書いている |
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HP |
近衛(wèi)基熙?舊所蔵「源氏物語」自筆を出品いたしました。
出品以外の所蔵品を紹介した出品者のホームページ「源氏物語の世界」をご覧ください。 ツイッター「源氏物語の世界」 も合わせてご覧ください。 |