この頃、國(guó)史學(xué)科には
黒板勝美が、そして東洋史學(xué)科には
池內(nèi)宏がおり、文獻(xiàn)史學(xué)の補(bǔ)助學(xué)としての
考古學(xué)に深い理解を示し、
古代史研究には考古學(xué)的研究が重要であるとの認(rèn)識(shí)が文學(xué)部史學(xué)科內(nèi)に広がっていた。そして、1914年(大正3年)に史學(xué)科の授業(yè)として文學(xué)部(當(dāng)時(shí)は文科大學(xué))にも考古學(xué)の講義が設(shè)けられるようになり、東洋史出身の原田が講師に任じられ、それを擔(dān)當(dāng)したのであった。このように、文學(xué)部の考古學(xué)は文獻(xiàn)史學(xué)の研究者の強(qiáng)い要請(qǐng)により、その補(bǔ)助學(xué)として生まれ、その後、日本の大陸進(jìn)出に歩調(diào)を合わせるように、東洋考古學(xué)をおもな研究分野として、理學(xué)部
人類學(xué)教室と住み分けていくのである。
1938年(昭和13年)3月に東京帝國(guó)大學(xué)文學(xué)部に考古學(xué)講座が開設(shè)され、原田は教授に、
駒井和愛は講師となる。1943年、
帝國(guó)學(xué)士院會(huì)員に推挙される。敗戦とともに、戦前の中國(guó)大陸、朝鮮半島における調(diào)査も當(dāng)然終焉をむかえたが、原田も翌1946年(昭和21年)に東京帝國(guó)大學(xué)を退官する。まさに、文學(xué)部考古學(xué)研究室の戦前の大陸での調(diào)査は原田とともに始まり原田とともに終わったのである。この約三十年間に、原田は不朽の名著ともいわれる報(bào)告書を始め、多くの業(yè)績(jī)を殘している。
戦後は1947年に日本考古學(xué)會(huì)長(zhǎng)に就任。1946年
聖心女子大學(xué)教授。1974年(昭和49年)12月23日、逝去。89歳。著作に『唐代の服飾』『漢六朝の服飾』など。とくに中國(guó)服飾史の研究にすぐれた。
原田淑人と
浜田耕作、この両者はいずれも日本における東洋考古學(xué)の開拓者であるが、浜田耕作は意外にもというべきか、
西洋史出身ということにもあらわれているが、漢籍が嫌いで洋書を好んだという
[5]。浜田耕作はヨーロッパの最新の考古學(xué)方法論に通じ、野外調(diào)査に重點(diǎn)をおき、文獻(xiàn)は補(bǔ)助的のものとしていたこととよく符合する。これに対し、原田は
漢學(xué)者の父の薫陶をうけ、漢籍に通じていた。
三上次男が「原田考古學(xué)」と呼ぶ、その真骨頂は、遺跡?遺物の研究の成果と、漢籍資料の研究の成果との緊密?慎重な連攜による問(wèn)題の解明であった
[6]。ここに両者の學(xué)風(fēng)の違いがある。出典:ウィキペディア
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