

【弦屋光渓舞伎役者絵木版畫】
2枚で一対になって2枚とも【二十四】の印で
希少な作品です。
【勧進(jìn)帳より市川團(tuán)十郎の武蔵坊弁慶(3月?明治座)】
作品番號145
制作 平成5年12月
部數(shù) 限定90部(90部で版木に傷を付け廃版)
印 光溪之印
色彩 墨、金泥、洋紅、朱印泥
紙 雁皮紙
平成5年12月
九十之內(nèi)(番號は印上に墨で明記)
雁皮紙(高知県産)
【勧進(jìn)帳より中村吉右衛(wèi)門の富樫左衛(wèi)門(3月?明治座)】
作品番號146
制作 平成5年12月
部數(shù) 限定90部(90部で版木に傷を付け廃版)
印 光溪之印
九十之內(nèi)(番號は印上に場で明記)
色彩 墨、金泥、朱、朱印泥
紙 雁皮紙(高知県産)
【松竹株式會社社長永山武臣】
畫家の“魂”
弦屋光溪さんを私が初めて知ったのは、光漢さんが最初の「太首絵』シリーズを歌舞伎座で売り出した昭和53年でした。ちょうどその年の春、野口達(dá)二さんに編集をお願いし私が発行人となって43年から10年間続けていた歌舞伎の研究誌「季刊雑誌 歌舞伎」の刊行の事業(yè)が、50冊で完結(jié)し、私は次の仕事に何をしようか考えていたところでした。その時(shí)目に止まったのが光溪さんの木版畫の役者絵でした。
思いみれば、江戸時(shí)代以來、歌舞伎と木版浮世絵とは切っても切れない関係にあったわけで、 有名な寫楽をはじめ、豊國や國政といった浮世絵師が描いた役者絵があったればこそ、いまだに私たちは當(dāng)時(shí)の芝居の様子や役者の特徴などを生き生きと知ることができるわけです。
私は次の仕事は、現(xiàn)代の歌舞伎俳優(yōu)の“役者絵”を世に出すことではないかと思い、光溪さんの仕事に注目しました。
現(xiàn)代は寫真やビデオで舞臺を記録できますが、寫真やビデオでは伝えられない何かが、絵の力によって、生き生きと伝えられると考えたのです。
その頃開かれた光漢さんの「木版地獄図」の個(gè)展を見て、その直後に光漢さんと會ってお話しすることができました。光溪さんのお祖父さんが洋畫の大家中沢弘光で、お父さんも畫家であったことを知りました。たまたま中沢弘光の描いた京都南座の絵を私が持っていたこともあって、 親しみを感じてお話ししているうちに、私は光演さんの中に脈々と流れている“畫家の血”と畫家の魂”を強(qiáng)く感じました。
光溪さんは大変優(yōu)しいお人柄で実に繊細(xì)な神経の持主ですが、心の底にシンの強(qiáng)いものを持っておられる方だと思いました。
例えば光溪さんは、下絵の制作から、版木の彫り、紙への摺り上げまで、すべてひとりで行うのですが、あらかじめ決めた一ヵ月の仕事の枚數(shù)――それは端からみるとまことに少ない枚數(shù)だと思えるのですが――を摺り終えると、版にキズをつけて二度と摺れないようにしてしまうのだそうです。理由は、既に完了した仕事には區(qū)切りをつけて、気持を新たに次の仕事に臨むため、 とのことでした。版木に自らキズをつけるなど、なかなか出來ることではないと思いました。
そんなことで光漢さんとのお付き合いがはじまり、私も光淡さんの作品を毎月買わせていただき、作品が送られてくるのが大変楽しみになりました。作品の額裝は、大半を銀座の八咫家(やたや)のご主人巖松正智さんにお願いしました。明治生まれの銀座っ子の巖松さんは私の若い頃からの知り合いで、名人蕓の素晴らしい額裝をしてくれました。
早いものでそうした作品がもう百點(diǎn)を越しました。並べて見ると、さながら現(xiàn)代の歌舞伎の俳優(yōu)が勢揃いした感があります。
ふりかえってみますと、光溪さんが作品を描いてきたこの十年間は、戦後歌舞伎の華が大き開いた時(shí)期で、俳優(yōu)の層の厚さ、舞臺の充実等、永い歌舞伎の歴史の中でも稀にみるいい時(shí)代でありました。図らずも光漢さんがこの時(shí)期にめぐりあわせ、その時(shí)代の歌舞伎の一つの証言者となったことは、ご本人にとっても、又歌舞伎にとっても大変幸せなことではなかったかと思います。
本年は歌舞伎座が明治22年に開場してから數(shù)えて100年に當(dāng)たります。その100年のうち、大正 2年からの75年間を、私ども松竹が歌舞伎座の経営にあたって現(xiàn)在に至っております。松竹では 「歌舞伎座百年」として數(shù)々の記念公演や記念事業(yè)を行っておりますが、その一環(huán)としてこの畫集を刊行することにいたしました。
これを期に広く光淡さんの仕事が世に知られればと願っております。
松竹株式會社社長
永山武臣
(2025年 4月 11日 14時(shí) 57分 追加)【弦屋光溪の言葉】
あとがき
私の育った新宿區(qū)諏訪町の家には30畳程の父の畫室がありました。 隣には祖父母の住む離れ座敷があって、その西側(cè)には祖父の広い畫室のある母屋がありました。 祖父も父も油彩畫家で、二人とも、 時(shí)代がどんなに変わろうと夢を求めて生きる真の自由人でした。 私は刺激的なテレピンの臭いの中で幼年期を過ごしました。 しかし、事情があって15歳の時(shí)に、この家を出ました。
祖父は明治末期には官展の審査委員で、又、出版文化の上でその業(yè)績は特に著しい畫家でした。 日本の古面が壁に並ぶ畫室で官展に出品する大作の構(gòu)想畫を描く以外は旅に出て、 獨(dú)路では四季を描き、旅宿で美人を描きました。 無が好きで生涯のほとんどを旅先で過ごしました。 その発的な小品の油彩美人畫や甘美な魅力の水彩畫は多數(shù)の崇拝者がいたと聞きます。 又、美しい色彩を想像させる浪漫的な短歌や旅がたりを発表したり、 時(shí)代の匂いを書籍の裝丁に多數(shù)殘しました。 時(shí)代に遊びず、自己を主張せず、信念を持ち畫壇の中道を歩みました。 私が伊豆の大島で高校生活を過ごしていた時(shí)に卒壽の一生を終えました。
父は無名のまま逝った畫家です。少年の頃は病弱であったと聞きました。 小柄で女性のように美しい顔立ちをした靜かな人で、子供のように純粋で無欲の人でした。 夜、月に手を合わせ何かを折っていた姿を見た事があります。 昭和30年代に美術(shù)団體結(jié)成に參加したり、日展特選になったりしましたが、 それから10年足らずで亡くなりました。個(gè)展をした事もなく畫集もない。 その人生にクライマックスはなく、この世に未練を殘し無念であったと思います。 私がサラリーマンで夜間の心へ通っていた時(shí)に不運(yùn)の生涯を閉じました。
あの諏訪町の家は今は既に無い。しかしそのなつかしい思い出は盡きず、 祖父や父への慕情は歳月が流れる程増して、その面影は脳裏に深く刻まれて行きます。 私が自らルーツを語る事によって、私を理解してもらえるような気がします。 所、蛙の子は妹で、正座しての機(jī)上の細(xì)かい仕事が合っている私は、木版畫を天職と思っております。
私が幸運(yùn)であったのは日本伝統(tǒng)の木版畫に理解を示す永山武臣氏に巡り會えた事です。又、 決斷力ある多數(shù)の収集家上、私の存在を発言してくれた勇気ある方々の後援があった事です。 今年、歌舞伎座が開場百年を迎えて記念行事として、 この畫集を出版する事となり、たいへん名譽(yù)な事と感謝しております。 永山武臣氏、ローレンス?スミス氏、デヴィド?カマンスキー氏の序文は光彩を添えて、 編集に孤軍奮闘された歌舞伎座の大沼僧之氏や協(xié)力と助言を戴いたロバート?サワーズ氏、 デヴィド?キャプラン氏、ジャパンタイムスの紹介記事を書いて下さった笹口玲さん、 そして社後印刷株式會社の星野英男氏のご苦労によって、 立派な畫集が出來上がりました。
この10年間の集大成である側(cè)集をたたき臺として、尚一層の進(jìn)歩を目標(biāo)に、 ご支援くださる皆様のご期待に添うように努力をしていく所存です。 どうぞ末長くご教示、ご指導(dǎo)、ご鞭體を御願いいたします。