|
商品詳細(xì)
|
|
【模寫】狩野探幽◆三幅対◆狩野探令鑑定書付◆狩野栄信鑑定書付◆絹本◆掛軸◆w812
◆狩野探幽(かのう たんゆう)
Tanyu Kano
【美術(shù)年鑑評価額 2800萬円】
日本畫, 歌人, 書家
1602 ( 慶長7 )~ 1674 ( 延寶2 )
本名:幼名四郎次郎のち守信
號:探幽、探幽斎、白蓮子、生明
【出身地?師系】
京都出身 師、狩野孝信、狩野興以、小堀遠(yuǎn)洲
【所屬?任】
鍛冶屋橋狩野派初代
【略歴?作風(fēng)など】
狩野永徳の子、狩野孝信の長男として生まれる。
畫を孝信及び孝信の沒後は狩野興以に學(xué)び幼少時(shí)より類稀なる才を発揮し11歳の頃に駿府にて徳川家康に謁見、その後15歳にして御用絵師として仕え二條城、名古屋城、江戸城など幕府建立の城郭や大徳寺、妙心寺などの有力寺院の障壁畫?襖畫を多數(shù)手掛け、また既存古畫への研鑽も深くそれらを縮小して模寫(「探幽縮図」として殘る) するなど狩野派中興の祖といわれており畫家としての最高位である法印に敘されている。
また、狩野宗家とは分家して鍛冶屋橋狩野派を創(chuàng)始。
畫業(yè)のほかにも小堀遠(yuǎn)州に師事して大師流の茶道や書、和歌にも秀でた。
◆荒木探令(狩野探令)
Tanrei Araki(Tanrei Kano)
日本畫, 陶蕓家, その他
1857 ( 安政4 )~ 1931 ( 昭和6 )
本名:本姓)荒木、名)守純、丈太郎
號:狩野探令(別號)
【出身地?師系】
出羽國(山形県)出身 師、狩野探美
【所屬?任】
日本美術(shù)協(xié)會(huì)委員
【略歴?作風(fēng)など】
出羽國戸沢藩士の子として生まる。
江戸に出て鍛冶橋狩野家の門人菊川淵斎に學(xué)び、さらに同家10代狩野探美に師事して狩野派の畫を修めその後日本美術(shù)協(xié)會(huì)展などで活躍。
1907年の文展開催時(shí)には正派同志會(huì)に參畫し幹事に就任、そのほか狩野忠信、岡倉秋水、岡不崩等と狩野會(huì)結(jié)成に參加。
また、畫家として活躍する一方でワグネルの旭焼の陶畫工として招聘を受けたほか石川県小松町の通成館で絵付けに従事、また、能美郡の図案教師として招聘を受け九谷焼図案作成に功績を殘している。
日本畫では伝統(tǒng)の狩野派を踏襲した山水図や風(fēng)景畫を得意としたが、陶畫ではワグネル指導(dǎo)によるテレビン釉描法を用いて釉下彩技法の下絵などを擔(dān)當(dāng)。また明治33年には東宮御所壁畫を描いている。昭和6年4月9日74歳で沒す。
◆狩野栄信(狩野伊川院)
【かのう えいしん】【かのう いせいん】
Eishin Kano (Isenin Kano)
【美術(shù)年鑑評価額 140萬円】
1775(安永4)~ 1828(文政11)
本名:榮信(栄信)
號:伊川、伊川院、幽玄斎、玄賞斎
江戸出身 師、狩野養(yǎng)川院惟信
木挽町狩野派7代目
【略歴?作風(fēng)など】
狩野惟信の子として生まれ、父に畫法を?qū)Wんで家業(yè)を受け継ぎ木挽町狩野派7代目を襲名。
よく幕府に御用絵師として仕え、1802年に法橋に敘せられて號:伊川院を拝領(lǐng)。
彩色、水墨共に秀で當(dāng)時(shí)の狩野派の畫家の中では最も優(yōu)れた畫家として知られており、父からも「畫に関しては及ばない」と言わし召したほどであったとされている。
また、茶の湯を能くし松平不昧から恩顧を受けている。
子に狩野晴川院養(yǎng)信(狩野清川)がいる。
代表作に青ざめた牡丹(板橋區(qū)立美術(shù)館)など。
この作品は、絹本?三幅対により『中 壽老 左右 山水』が描かれております。
狩野探令さんの鑑定書か付いております。
狩野栄信さんの鑑定書か付いております。
箱は合箱で、枕に欠損?スレ?小穴がございます。
本紙には、小ジミ?小ジワがございますが、概ね狀態(tài)は良好です。
表裝には、小ジミ?小ジワがございますが、概ね狀態(tài)は良好です。
模寫としての出品ですが、印刷ではなく、書いてある作品ですので、ご入札の程よろしくお願(yuàn)い致します。
サイズ
約【縦186cm×幅52cm?(本紙)102cm×40cm】×3
| |