翠緑の生命、マハラジャの吐息

そもそも、巷に溢れる寶飾品というものが、真の美を解さぬ俗物の手慰みに墮して久しい。ダイヤの輝きがどうだ、金の純度がどうだのと、素材の価値ばかりを金尺で測り、その品物が內(nèi)包する生命の物語、悠久の時(shí)を経て練り上げられた魂の気配に思いを馳せる者が、果たしてどれほどいるというのか。くだらぬ。実にくだらぬ話だ。
そんな蒙昧な連中には、この首飾りの真価など到底わかるまい。これは単なる裝飾品ではない。地球という巨大な生命體が、その奧深くで何億年もの歳月をかけて育んだ「緑の血潮」そのものなのだ。
一見して心を奪うこの深遠(yuǎn)なる緑。これはアンデスの峻嶺が天を衝く、かのコロンビアの鉱脈で奇跡的に結(jié)晶したエメラルドの群れだ。ただの緑ではない。夜明け前の熱帯雨林を濡らす?jié)饷埭孰~の色であり、古寺の苔が幾星霜を吸い込んだ靜寂の色であり、そして、かつてガンジスのほとりで栄華を極めたマハラジャ(藩王)たちが、その眼に宿していた野心と叡智の色なのだ。
西洋の王侯貴族が好んだような、一點(diǎn)の曇りもなき大粒の寶石を、計(jì)算され盡くした幾何學(xué)的なカットで飾り立てる、あの冷たく傲慢な美意識とは、この首飾りは対極にある。インドの王たちは、自然への畏敬を知っていた。彼らは寶石を、自然から切り離された無機(jī)質(zhì)な「石」としてではなく、大地の力を宿した「生命の欠片」として捉えた。だからこそ、彼らはあえて大きさや形の不揃いな、生命力に満ち溢れたエメラルドを幾重にも連ね、その圧倒的な量感と色彩の洪水で、自らの権威と、神々から與えられた豊穣を誇示したのだ。
この三連のネックレスを見よ。ひとつひとつの石は、職人がその聲に耳を澄ませ、個(gè)性を殺さぬよう丁寧に磨き上げられている。ゆえに、光を受けるたびに、それぞれの石が異なる表情で瞬き、全體としてうねるような生命の躍動(dòng)感を生む。それはまるで、熟練の指揮者が百人の楽団員をまとめ上げ、壯大なシンフォニーを奏でるが如し。二本の繊細(xì)な旋律が、中央の一段と量感のある主題を支え、首にかける者の肌の上で、緑の狂詩曲(ラプソディ)を奏でるのだ。
そして、その緑の奔流を靜かに受け止めるのが、溫もりある14金の留め金だ。これ見よがしな裝飾を排し、ただ実用と品位のみを追求したこの黃金は、主役であるエメラルドへの深い敬意の表れに他ならない。太陽が大地を照らし、その恵みを育むように、金はエメラルドの生命力を引き立て、それを身に著ける者へと橋渡しする役目を心得ている。
これを身に著けるということは、単に富を誇示することではない。インドの哲學(xué)が、アンデスの大自然が、そして悠久の時(shí)が生み出した美の物語を、自らの魂に纏うということだ。その日、あなたはただの人間ではない。デカン高原を象で渡る王妃となり、ガンジスの沐浴で祈りを捧げる巫女となり、あるいは、失われた古代文明の秘密をその身に宿す、神秘の存在となるだろう。
さあ、この翠緑の生命を前にして、己の審美眼が試される時(shí)だ。その価値が分かる者だけが、手に取るがいい。私には、これ以上語る言葉はない。物が、すべてを物語っているのだから。
【作品仕様】