幻と言われる精磁會(huì)社の菓子器を出品致します。
精磁會(huì)社後期に日用食器として量産された小皿中皿の類は時(shí)折見かけますが、このような上手の蓋物は滅多に見つからないと思います。
明治の鹿鳴館で國(guó)賓の接待にも使用された精磁會(huì)社の品物だけあり、大変美しい品物です。同意匠の品物が京都國(guó)立博物館に収蔵されています。赤絵で書かれた獨(dú)特の銘が高臺(tái)にあります。型押しした銘も見かけますが、その場(chǎng)合は日用食器として作成されたものか、あるいは素地だけを精磁會(huì)社が提供して絵付けは他でされたものが多いようです。

ワレ、カケ、ヒビなどの後天的な瑕疵は一切ありません。寸法は、高さが9cm、直徑が16cmです。

精磁會(huì)社の概要をご參考までに以下に記します。

明治12年、深海兄弟?辻勝蔵?手塚亀之助の四人はその4年前に深川と共同で設(shè)立した香蘭社を離脫して別に精磁會(huì)社を設(shè)立した。辻の工場(chǎng)に深海の工場(chǎng)を移して完全合併の會(huì)社として発足した。明治十二年二月のことである。

精磁會(huì)社は、明治十六年アムステルダム萬博に參加し、閉會(huì)後、フランスのリモージュに廻って、最新鋭の製陶機(jī)械一式の購(gòu)入契約を結(jié)んで帰國(guó)した。辻の工場(chǎng)に隣接する三千坪の地に新工場(chǎng)を建設(shè)して、明治二十年七月一日、落成式を迎えた。日本で最初の最新鋭を誇る製陶工場(chǎng)ということで全國(guó)各地の陶磁器関係の官民多數(shù)が出席した。この工場(chǎng)こそ日本の陶業(yè)近代化のシンボルであった。

しかし、その前年には深海墨之助、翌年には川原忠次郎が相次いで病死した。そして、二年後には辻勝蔵が離脫するなどして、この栄光も長(zhǎng)くは続かなかった。

他にも何點(diǎn)か出品しております。ご覧頂ければ幸いです。

(2023年 5月 5日 10時(shí) 35分 追加)
注: 最近、私の寫真と説明文をそっくりそのまま盜用した詐欺サイトがいくつかあるようです。呉々も騙されないようにご注意下さい。