


不昧公の正室?方子と娘?玉映の落款

「四望唯煙雲(yún)」篆書(漢詩文)白楽天

仙臺藩醫(yī)?木村壽禎の落款

源氏の君、左?冷泉天皇(模型)

源氏物語?薄雲(yún)の巻(屏風(fēng))

明石の姫君の手をとる明石の君(模型)

琵琶を弾く、明石の君(模型)

冷泉帝(京都?源氏物語風(fēng)俗博物館)
令和6年から「源氏物語」の作者?紫式部をモデルにしたNHK大河ドラマ「光る君へ」が放送されております。
京都の公卿?大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)自筆「源氏物語」近衛(wèi)基熙?舊所蔵
自筆「源氏物語」の「薄雲(yún)(うすぐも)」の巻は、禁裏(京都御所)において書かれたものです。
原文は「源氏物語?薄雲(yún)の巻」として美しく描かれている
自筆「源氏物語」の筆者である「大炊御門宗氏(おおいのみかどむねうじ)」は、室町時代の第103代天皇である後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の曽祖父です。
したがって、出品した自筆「源氏物語」は、天皇の曽祖父の貴重な自筆です。
大炊御門宗氏の長男?信宗の娘が大炊御門信子(のぶこ)であり、信子は後花園天皇の寵愛を受け準(zhǔn)后として御所に居住し、皇子を生み後に第103代後土御門天皇として即位し、信子は生母?皇太后となる?,F(xiàn)在の今上天皇と系譜がつながっている。
関白?近衛(wèi)基熙(このえ もとひろ)は、後水尾院(第108代後水尾天皇)の皇女?常子內(nèi)親王と結(jié)婚。二人の皇女?熙子(ひろこ)は、甲府藩主?徳川綱豊と結(jié)婚。綱豊は、のち第六代將軍?徳川家宣となり、熙子(ひろこ)は將軍家宣の正室となった。近衛(wèi)基熙は、千利休の孫?千宗旦との茶會の交流(下記に掲示)で知られると同時に、第111代?後西院天皇や後水尾天皇を主賓に迎え茶會を開催。茶會の際、基熙が所蔵する藤原定家?自筆の「定家色紙」を持參した記録がある?;酩?、他にも朝廷?幕府の間で茶會を何度も開催した記録が殘っている。(資料の記録は下記に掲示)
出品した「源氏物語」は、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」の自筆です。
自筆「源氏物語」の書の特徴から高松宮系統(tǒng)と稱されるものです。「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複數(shù)の年號の記載があることから、少なくとも応永五年から8年間にわたり書かれていることがわかる。このため後醍醐天皇の宸翰(しんかん?天皇自筆)にかなり近い年代に書かれていることがわかる。また、各巻ごとの書かれた年については不明。従って、応永五年とは、書き始めの年である。また、落款から、後年、近衛(wèi)基熙(1648~1722)の所蔵となり、時代が下って、松平不昧公の手にわたり、正室?方子の所蔵となったものである。近衛(wèi)家で永く保存されておりましたので、保存狀態(tài)は極めて良好です。
大炊御門家は、平安時代末期摂政関白藤原師実の子経実?治暦4年(1068)~天承元年(1131)を祖として創(chuàng)立された。大炊御門北に邸宅があったため「大炊御門(おおいみかど)」を稱する。初代、経実の子経宗は平治の亂で平清盛方の勝利に貢獻(xiàn)。また、二條天皇の外戚として勢威をふるい、左大臣に昇った。出品した「源氏物語」の筆者?大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)は、大炊御門家13代の當(dāng)主で南北朝時代から室町時代前期の公卿。応永5年(1398年)に従三位となり公卿に列する。備前権守、參議、権中納言、権大納言などを歴任し、応永27年(1420年)に內(nèi)大臣に昇任した。
舊?所蔵者の近衛(wèi)基煕は、「源氏物語」に造詣が深く、「源氏物語」の注釈書『一簣抄』(いっきしょう)を著(あらわ)しております。炊御門宗氏?自筆「源氏物語」は、近衛(wèi)基熙が研究のために収集し、のちに出雲(yún)松平家に伝わり、松平治郷の正室?方子が鑑賞していたものです。近衛(wèi)基熙が所蔵する自筆?「源氏物語」の中で、最も美しく繊細(xì)な筆致で記された平安時代の文字に最も近いとされております。數(shù)ある自筆「源氏物語」の中で、第一級品と稱される貴重な自筆です。
出品した「源氏物語」は薄雲(yún)(うすぐも)の內(nèi)容の要旨
「薄雲(yún)の巻」は、『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第19帖。源氏の君の正妻?紫の上が住む二條院の東院が完成した。源氏の君は、二條東院の一角に明石の君を呼び寄せるつもりであった。源氏の君との身分差を気にする明石の君はその誘いを素直に受け入れられず、母の明石の尼君や娘(明石の姫君)と共に父が用意した別荘(大堰?。─艘皮曜·螭?。大堰邸で姫君(明石の姫君)と初めて対面した源氏の君は、その美しさと可愛らしさに心を打たれ、姫君(明石の姫君)を自分のもとで育てたいという思いを強くする。源氏の君が姫(明石の姫君)君の養(yǎng)育について紫の上と相談すると、紫の上は、姫君(明石の姫君)を引き取ることに心よく承諾をした。
自筆下部の印は出雲(yún)?松江藩主?松平治郷の正室「方子(よりこ)」と娘?幾千姫(玉映)の落款(印譜)
「薄雲(yún)(うすぐも)」自筆原本の上部には、原本自筆上部に「薄雲(yún)(うすぐも)」には、「四望唯煙雲(yún)」《四望(しぼう)するも唯(ただ)煙雲(yún)(えんうん)のみ》という白楽天の漢詩の篆書印が押捺されている。漢詩の意味は、「あたりを眺めても靄(もや)と雲(yún)しか見えない」という意味。「薄雲(yún)」の巻の原文には、源氏の君の言葉として「入日さす峰にたなびく薄雲(yún)はもの思う袖に色やまがへる」とある。まさしく「薄雲(yún)(うすぐも)」の巻名の由來となる言葉である。原文の意味は、「夕日の射している峰にたなびいている薄雲(yún)は、悲嘆にくれている私の喪服の袖の色に似せているのだろうか」という內(nèi)容である。愛する藤壺を失った悲しみを歌ったものである。源氏の君の心情を白楽天の漢詩に逅(かいこう)したことによります。解読すると「逢うという名の逢坂の関とは、いったいどういう関所ゆえに生い茂る木々の間をかきわけてこうも深い嘆きを重ねるのでしょう」長い間、消息の途絶えていた源氏の君のきらびやかな石山詣の行列と偶然に遭遇した際の過去の愁いを思い出しことが記されている。篆書印の詩文は、この原文と白楽天の心情を重ね合わせたものと推定。紫式部が「薄雲(yún)」を書くに際し、白楽天の漢詩を読み理解し共鳴していることがよくわかる。詳細(xì)な理由は下記説明欄に記載。
(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。)
大炊御門宗氏?自筆「源氏物語」近衛(wèi)基熙?舊蔵の來歴については下記「説明欄」に記載
《「源氏物語」薄雲(yún)(うすぐも)の巻》
「薄雲(yún)」の巻は英文で「A Rack of Cloud」と表記されます。
《自筆上部の「薄雲(yún)(うすぐも)」自筆原本の上部には、「四望唯煙雲(yún)」《四望(しぼう)するも唯(ただ)煙雲(yún)(えんうん)のみ》という白楽天の漢詩の篆書印が押捺されている。
漢詩の意味は、「あたりを眺めても靄(もや)と雲(yún)しか見えない」という意味。この漢詩は白楽天の「文集」の中の有名な一節(jié)です。
「額縁入自筆原本」
(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。)
「自筆原本」
自筆右下四つの印のうち上2つは、出雲(yún)?松江藩主?松平治郷の正室?方子?と娘の幾千姫(玉映)の落款。
下2つは、仙臺藩第五代藩主?伊達(dá)吉村の正室?伊達(dá)貞子の押印
自筆上部の「四望唯煙雲(yún)」《四望(しぼう)するも唯(ただ)煙雲(yún)(えんうん)のみ》という白楽天の漢詩の篆書印が押捺されている。
漢詩の意味は、「あたりを眺めても靄(もや)と雲(yún)しか見えない」という意味。この漢詩は白楽天の「文集」の中の有名な一節(jié)です。
《原本中の凹凸はストロボの影響によるものです。》
自筆下部の印は仙臺藩醫(yī)?木村壽禎の落款(印譜)
自筆が「古切」とされたのは江戸時代。古切に至る詳細(xì)な経緯は下記「希少価値欄」に記載
(1)?自筆の「原文の読み下し文」は次の通りです。
《「源氏物語」薄雲(yún)(うすぐも)の巻》
原文には「四望唯煙雲(yún)」《四望(しぼう)するも唯(ただ)煙雲(yún)(えんうん)のみ》という白楽天の漢詩の篆書印が押捺されている。漢詩の意味は、「あたりを眺めても靄(もや)と雲(yún)しか見えない」という意味。この漢詩は白楽天の「文集」の中の有名な一節(jié)です。
《給ぬるを、》????おほかたこ宮の御こと(事)を
ひるよなくおほ(思)しめしたるころ(頃)なれはなめり、
と見奉り給ふ。その日式部卿のみこ(親王)うせ給ぬる
よしそう(奏)するに、いよいよ世中のさは(騒)かしきことを
なけきおほ(思)したり。かゝるころ(頃)なれは、
おとゝはさと(里)にもえまかて給はて、つとさふら(侍)ひ給ふ。
しめやかなる御物かたり(語)のつゐてに、「世はつきぬるにやあらむ、
もの心ほそ(細(xì))くれい(例)ならぬこゝちなんするを、
あめのした(下)もかくのとかならぬに、よろつあはたゝしくなん。
こ宮のおほ(思)さん所によりてこそ、
世間のことも思ひ?????《はゝかりつれ》
(文責(zé)?出品者)
「原文の読み下し文」は、読みやすいように「通行訳」としております。
(2)?自筆の「原文の現(xiàn)代語訳文」は次の通りです。
《「源氏物語」薄雲(yún)(うすぐも)の巻》
《明石の姫君を二條院に迎える?袴著の儀式》
《源氏の君の箏(そう)と明石の君の琵琶の合奏》
《冷泉天皇、藤壺の宮の若くてきわだつ美しさに見入る》
《帝(冷泉天皇)、僧都から自分の出生の秘密を知る》
《冷泉天皇、実父の源氏の君に譲位をほのめかす》
《父君(帝の実父?源氏の君)の
お姿をごらんになるにつけて、帝(冷泉天皇)は
いよいよたまらないお気持になられ、
お涙をおこぼしになるのを、》????大臣(源氏の君)は、
(源氏の君)「おおかた、このごろずっと故母宮(藤壺中宮)の御事を
涙のかわく暇もなくお慕いあそばすからであろう」
とお察し申される。
その日、式部卿宮がおなくなりになった旨を奏上するので、
帝(冷泉天皇)はますます世の中が穏やかならぬことをお嘆きあそばす。
こうした異常の折とて、大臣はご自邸にご退出にもなれず、
帝(冷泉天皇)のおそばに付きっきりで伺候していらっしゃる。
しみじみとしたお話のついでに、帝(冷泉天皇)は、
(冷泉天皇)「わたしの治世はいよいよこれまでということでしょうか。
なんとなく心細(xì)く、普通ではない心地ですが、世の中もこのように
異変が続くので何かにつけて落ち著かないのです。
故母宮(藤壺中宮)がどうご心配あそばすかと、
この身の進(jìn)退(譲位)についても?????《遠(yuǎn)慮していましたが、
これからは安楽な境地で過したいと思うのです」
と大臣(源氏の君)ご相談申しあげられる。》
現(xiàn)代語訳の出典?「源氏物語」小學(xué)館刊?阿部秋生?東大名譽教授(1999年沒)
備考?出品した自筆は、大炊御門宗氏?自筆で近衛(wèi)基熙の舊?所蔵になるものです。
(2)?自筆の「英訳文」は次の通りです。
《A Rack of Cloud(薄雲(yún))》
He must regretfully inform the emperor that Prince Shikibu
had just died.
Another bit of the pattern, thought the emperor.
Genji stayed with him all that day.
"I have the feeling," said the emperor, in the course of quiet,
intimate talk, "that I am not destined to live a long life.
I have a feeling too which I cannot really define that
things are wrong, out of joint.
There is a spirit of unrest abroad. I had not wished to upset
my mother by subjecting her and all of you to radical change,
but I really do think I would prefer a quieter sort of life."
英語訳文(英文)の出典:『The Tale of Genji』
Edward George Seidensticker(エドワード?ジョージ?サイデンステッカー)コロンビア大學(xué)教授(2007年沒)
(2)?自筆の「中國語訳」は次の通りです。
《薄云(薄雲(yún))》
源氏內(nèi)大臣以他悼念母后,淚眼至今未干也。
一天,桃式部卿王逝世了。耗來,
冷泉帝又吃一,得世兇接踵而生,
越可了。源氏內(nèi)大臣看皇上如此,
便不返二條院去,常住中,與皇上密心。
皇上他言道:“我恐壽命不永了,
何以近來心情如此,天下又如此不太平。
萬方多,教我不懼。我思引退,
母后在世之,我恐使心,不敢提及。
中國訳文の出典:『源氏物語(Yunsh wy)』
豊子愷(ほうしがい)中國最初の「源氏物語」翻訳者(文化大革命で沒)
「薄雲(yún)の巻」原本の末尾(原本番號33-B)の印は、仙臺藩第五代藩主?伊達(dá)吉村の正室?伊達(dá)貞子の押印
左の寫真が「源氏物語」薄雲(yún)の巻の末尾(原本番號33-B)の押印。
寫真左下の角印が仙臺藩の家紋?。ㄖ瘠巳福?BR>
家紋印の上の2つの印は仙臺藩主第五代藩主?伊達(dá)吉村の正室(冬姫)。冬姫は內(nèi)大臣?通誠の養(yǎng)女。
冬姫は通稱。正式な名は伊達(dá)貞子。
上部には、「始是新承恩沢時」《始めてこれ、新たに恩沢を承(う)くるの時》という篆書印が押捺されている。この漢詩は漢の皇帝が楊貴妃にまみえたときの白楽天の有名な描寫である。
篆書體右の二つの印は、出雲(yún)?松江藩主?松平治郷の正室「方子(よりこ)と娘?玉映の落款
右端の寫真上は仙臺藩主(伊達(dá)家)正室一覧表の表紙。表紙の下は一覧の拡大寫真(仙臺市立博物館?刊行)
(奧書は、令和2年11月29日に蔵の中の桐箱から発見されたものです。)
自筆の疎明資料等は、下記の通りです。
(Ⅰ)?上の寫真右端は、高松宮「源氏物語」のうち「桐壺」の巻冒頭?(出典資料 別冊「太陽」「源氏物語絵巻五十四帖」(平凡社?刊)78頁。筆者は近衛(wèi)関白政家公。中央の寫真は、応永五年(1398)の年號。年號の左の印は、出雲(yún)?松江藩主?松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)。左の寫真は、桐壺の巻の奧付。左大臣から関白に昇進(jìn)した近衛(wèi)基熙(もとひろ)公の花押。上下2段の花押のうち、上の印は。出雲(yún)?松江藩主?松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)、下の印は仙臺藩醫(yī)?木村壽禎の落款(印譜)
「自筆の畫像斷層(MRI)寫真」
(出品した自筆の「斷層畫像寫真」(薄雲(yún)の巻)MRI 19―22B
自筆下二つの印のうち下は、出雲(yún)?松江藩主?松平治郷の正室「方子(よりこ)」、上は娘の幾千姫(玉映)の落款
「源氏物語」薄雲(yún)の巻の絵の資料
下記寫真は、明石の姫君を抱く明石の君(屏風(fēng))
「天皇の曽祖父?大炊御門宗氏の系図」「額縁裏面表記ラベル」
1番上の寫真は、第103代後土御門天皇と曽祖父?大炊御門宗氏の系図(公家事典303頁)
2番目の寫真は「額縁裏面」に表記されるラベル。
大炊御門宗氏?自筆「源氏物語」近衛(wèi)基熙?舊所蔵(斷簡)を出品
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商品説明(來歴)
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大炊御門宗氏?自筆「源氏物語」は、第107代後陽成天皇の曾孫?近衛(wèi)基熙の舊所蔵である。近衛(wèi)基熙は、「源氏物語」に造詣が深く、「源氏物語」の注釈書『一簣抄』(いっきしょう)を書いてある。出品した大炊御門宗氏?自筆「源氏物語」は、近衛(wèi)基熙が研究のために収集し、のちに近衛(wèi)家から出雲(yún)松江藩主?松平治郷(不昧公)の正室?方子(よりこ)に伝わり、方子の生家である仙臺藩から同藩の藩醫(yī)?木村壽禎に伝來していたものである。
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漢詩文
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原文上部には「四望唯煙雲(yún)」《四望(しぼう)するも唯(ただ)煙雲(yún)(えんうん)のみ》という白楽天の漢詩の篆書印が押捺されている。漢詩の意味は、「あたりを眺めても靄(もや)と雲(yún)しか見えない」という意味。この漢詩は白楽天の「文集」の中の有名な一節(jié)です。紫式部が「薄雲(yún)」を書くに際し、「白楽天?漢詩集」の漢詩を熟読したうえで「源氏物語」の「薄雲(yún)の巻」を書いていることがわかります。この原詩の言葉の引用は、「薄雲(yún)の巻」に用いられていることで広く知られている。紫式部がこの原詩に親しんでいたことがわかる。
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漢詩の落款の意味
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原本上部の漢詩の落款は、「讃」と稱されるもので、古來、掛軸の書畫に第三者がお褒めの言葉を書き込むもので元々は自筆でした。貴族から始まり藩主、あるいは高名な茶人や僧侶が書かれて、それが茶會の「掛軸」に裝丁されて披露されておりました。
特に出雲(yún)?松江藩などの茶道の盛んな大名家の所蔵する自筆などに「讃」が付され、後に自筆に代わり、石刻による「漢詩」の篆書が「讃」として用いられました。
「茶事」は、「ヨーロッパの晩餐會(ばんさんかい)」とも言われます。晩餐會では、「ワインを楽しむために行われる」ところも似ています。とりわけ、茶室に入って行うことは、床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)することです。茶道では「掛け軸は最高のごちそう」といわれております。とりわけ、漢詩の落款は、ただ、古典の漢詩を入れればいいという単純なものではなく、たとえば、「源氏物語」の場合、原本の中に込められている紫式部が考えた知識を読み解くことにあります。
「讃」の中に有名な白楽天の漢詩を単純に落款として入れたのではなく、紫式部が原本の中に白楽天の漢詩を読み込んでいることを知ったうえで漢詩を選んでおります。
落款の「讃」の元になるその原文の個所には、
「四望唯煙雲(yún)」《四望(しぼう)するも唯(ただ)煙雲(yún)(えんうん)のみ》という白楽天の漢詩の篆書印が押捺されている。漢詩の意味は、「あたりを眺めても靄(もや)と雲(yún)しか見えない」という意味。この漢詩は「白氏文集」に由來するものです。 つまり、原文の內(nèi)容に関する漢詩の落款を押捺しているのは、茶會における床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)の際に、茶會を主催する亭主が、客に「最高のごちそう」を振る舞うために披露したものです。茶會の際に落款に記された由來を知った客が広くそのことを社會に広めたために結(jié)果的に、多くの茶會に開催される「最高のごちそう」として原文に関係する漢詩の落款を付したものです?!嘎淇睢工螡h詩の由來を待合において説明する際に、長い時間を要し、茶會における貴重な時間であったと推定されております。
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自筆の希少価値について
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自筆の稀少価値は、和紙の生成技法の緻密さにあります。上の「拡大斷層(MRI)寫真」でわかる通り、極めて薄い和紙の上に墨の文字がくっきりと浮き上がるように「源氏物語」の文字が記されております。 出品している書の「斷層(MRI)寫真」の原板は、レントゲン寫真と同じ新聞の半分ほどの大きさのフィルムです。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。日本國內(nèi)では醫(yī)療用以外には見ることのできない書の「斷層(MRI)寫真」です。 古切の書は、一旦表裝を剝離し分析と鑑定検査のために「斷層(MRI)寫真撮影」をしております。撮影後、展示のために再表裝をしております。掛軸や屏風(fēng)にすることが可能なように、「Removable Paste(再剝離用糊)」を使用しているため、自筆の書に影響をあたえずに、容易に「剝離」することができるような特殊な表裝となっております。
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斷層(MRI)寫真
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従來、日本の古美術(shù)の鑑定の際の分析?解析は、エックス線寫真、赤外寫真、顕微鏡が中心です。一方、アメリカやイギリスでは研究が進(jìn)み和紙の組成狀況を精確に分析?解析をするために斷層(MRI)寫真が利用されており、今回の出品に際し、「斷層(MRI)寫真」を資料として出しました。本物を見分けるための歐米の進(jìn)んだ分析?解析技術(shù)を見ることができます。
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寸法
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「源氏物語」自筆の大きさ タテ21.8センチ ヨコ12.8センチ。額縁の大きさは タテ37.0センチ ヨコ28.0センチです。額縁は新品です。
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「源氏物語」の自筆について
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1?筆跡の分析について
國內(nèi)における鑑定人は、自筆の筆者を識別するために、個々の文字ごとに字畫線の交叉する位置や角度や位置など、組み合わせられた字畫線間に見られる関係性によって、個人癖の特徴を見出して識別する方法、また個々の文字における、畫線の長辺、灣曲度、直線性や斷続の狀態(tài)、點畫の形態(tài)などに見られる筆跡の特徴によって識別する方法、そして、書の勢い、速さ、力加減、滑らかさ、などの筆勢によって識別する方法が一般的な手法です。
一方、歐米では一般的には、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析をコンピューターの數(shù)値によって解析しております。數(shù)値解析は、文字の筆順に従いX、Y座標(biāo)を読み、そのX、Y座標(biāo)をコンピューターへ入力後、コンピューターによって多変量解析を行うものです。解析の基準(zhǔn)となるのが「ドーバート基準(zhǔn)」で、アメリカでは日本國內(nèi)の畫像データを自動的に収集、自筆の分析に際し、數(shù)値データをコンピューターで自動的に解析し「極似」した畫像データによって筆者を識別する研究が進(jìn)んでおります。
2?大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)の自筆の特定について
自筆の筆者は、書體、書風(fēng)から京都の公卿によって書かれたものであるはわかっていたが、昭和38年以來、筆者名は特定されていなかった。その後、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析と並行し、奧書の「宗」の字の下の文字が判読できずにいた。それが、技術(shù)の進(jìn)歩により「宗」の下の文字が「氏」と判読された結(jié)果、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」であることが判明した。 「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複數(shù)の年號の記載があることから、大炊御門宗氏が23歳から31歳までの間に書かれたものと推定されている。宗氏は、正二位?內(nèi)大臣まで昇進(jìn)したのち、応永28年(1421)47歳で沒している。
3?自筆「源氏物語」の舊?所蔵者の特定の経緯について
近衛(wèi)基熙の舊?所蔵の特定は、「花押」の寫真照合技術(shù)によるものです。アメリカのコンピューターを用い、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析を、花押の照合に応用し、指紋の照合方法と同じ手法により99.9パーセントの確率で特定に至ったものです。
4?近衛(wèi)基熙(このえもとひろ)について
近衛(wèi)基熙は、慶安元年(1648年)3月6日、近衛(wèi)尚嗣(関白?左大臣)の長男として誕生。母は後水尾天皇皇女女二宮。実母は近衛(wèi)家女房(瑤林院)。幼名は多治丸。父、尚嗣が早世し、尚嗣と正室女二宮の間には男子がなかったため、後水尾上皇の命により、近衛(wèi)家の外にあった基熙が迎えられて上皇の保護(hù)下で育てられた。
承応3年(1654年)12月に元服して正五位下に敘せられ、左近衛(wèi)権少將となる。以後、摂関家の當(dāng)主として累進(jìn)し、翌年明暦元年(1655年)従三位に上り公卿に列せられる。明暦2年(1656年)に権中納言、萬治元年(1658年)に権大納言となり、寛文4年(1664年)11月23日には後水尾上皇の皇女常子內(nèi)親王を正室に賜った。寛文5年(1665年)6月、18歳で內(nèi)大臣に任じられ、寛文11年(1671年)には右大臣、さらに延寶5年(1677年)に左大臣へ進(jìn)み、長い時を経て元祿3年(1690年)1月に関白に昇進(jìn)した。近衛(wèi)基熙は、寛文5年(1665年)から晩年まで『基熈公記』で知られる日記を書いている
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HP
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近衛(wèi)基熙?舊所蔵「源氏物語」自筆を出品いたしました。
出品以外の所蔵品を紹介した出品者のホームページ「源氏物語の世界」をご覧ください。
ツイッター「源氏物語の世界」
も合わせてご覧ください。
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